top of page


怪盗ムーラン・ルージュ
#アップル オブ ディスコード(不和の林檎)編(50~60分)

≪役表≫

〇藤崎 武(ふじさき たける)♂:
〇藤崎 乃吾(ふじさき のあ)♂:
〇藤崎 志のぶ(ふじさき しのぶ)♂♀:

〇ダリア・梨世(りぜ)・鳴海(なるみ)♀:
〇峰岸凛子♀:

〇妃貴 優凪(きさき ゆうな)♀:


〇N(ナレーション)♂♀:

≪兼役推奨≫
〇イヴ♀:
〇フランシス・葵(あおい)・ヴェルヌ♂:
〇毬緒(まりお)・ド・ヌーヴ♂♀:


 

_________________________________

≪配役例≫2:3:1
武尊♂:
乃吾/フランシス♂:
志のぶ/毬緒♂♀:

ダリア♀:
凛子♀:

優凪/イヴ♀:

ナレーション♂♀:

_________________________________


【1】

N   帝国美術館の隣に位置するレトロなブックカフェで、いつも彼女はランチをする。
    定期的に読んでいるファッション雑誌や経済新聞を眺めながら、カフェモカを飲むのが定番だ。
    そろそろ帰ろうかと立ち上がった彼女は誰かとぶつかる。
    相手の持っていた本がバラバラと床に落ちた。


優凪  失礼…


武尊  いえ、こちらこそ失礼しました。


N   ゆっくりと落ちた本を拾い上げる男。
    それを見下ろしながら「なんて鈍い動きなのだろう」と逸らした視線の先に、

    ロフストランドクラッチを見つけ慌てて本を拾うのを手伝う。


優凪  ごめんなさい。大丈夫かしら?


武尊  大丈夫です、ありがとうございます。

 

N   こちらの無礼を気にすることなく、優しく笑うその男の笑顔に一瞬目が奪われる。
    気恥ずかしさを隠すように本についた埃を払おうとして、彼女は驚いた。


優凪  あら、これ。


ナレ  それは一冊の画集だった。


優凪  アントワーヌ・ヴァトゥーね。


武尊  そうです。お好きなんですか?


優凪  ええ。


武尊  帝国美術館で彼の絵画が見られると思ってたんですが、延期になってしまって残念です。


優凪  …怪盗ムーラン・ルージュの予告状?


武尊  ええ、警備強化のために宝石以外の展示を見送ると聞いて…。

    見れないとなると人間不思議と欲求が高まるんですね。
    

優凪  彼の作品がお好きなの?


武尊  はい、以前ルーブルでパリスの審判を見た時に衝撃を受けました。

    ただ…全然詳しくなくて、今勉強中です。


優凪  そうなの…あら、ごめんなさい、この画集汚れてしまったわね。


武尊  ああ、大丈夫です。僕アンティークが好きなのでこっちの方が味があって…その…


N   なんとも苦しいフォローに口元が緩み思わず吹き出す。


優凪  …(小さく吹き出して)ごめんなさい、笑うつもりじゃ。


武尊  ああ、いえ、さすがにこれは無理があったなって思ったんで笑っていただけてよかったです。


優凪  …お詫びに何かさせてくださらない?


武尊  いえ、そんな結構です。僕の不注意で落としたんですから。


優凪  私の気が収まらないの。


武尊  困ったな…ああ、そうだ、でしたら今度、僕の店に遊びに来てください。


N   そう言って彼は名刺を取り出した。


優凪  …Bar ルージュ・ノワール。


武尊  そこで僕に一杯奢って頂くっていうのはどうでしょう?


優凪  …え?


武尊  ダメ…ですか?


優凪  ふふ、素敵ね、お邪魔するわ。


武尊  ええ、是非。


優凪  じゃあ、私はこれで。


武尊  あ…あの。


優凪  ?


武尊  お名前、伺ってもいいですか?


優凪  妃貴優凪(きさき ゆうな)。


武尊  妃貴さん…じゃあ、また。


優凪  またね。


N   優凪の背中を見送る柔らかい表情が、普段の冷静な武尊のものに変わる。
    カフェの会計を済ませ外に出ると、待ち伏せしていた志のぶが彼に並んで歩き始めた。
    にやりと笑って弟は兄を見つめる。


志のぶ “僕”ね…?


武尊  彼女の好みに合わせただけだよ。


N  そっけなく答える武尊にスマートフォンに映し出された優凪の写真やデータを見せながら、

    志のぶは続ける。


志のぶ 帝国美術館の新館長、妃貴 優凪(きさき ゆうな)、37歳。

    先月から新しく館長に就任したやり手だってさ。
    …美人だね、兄貴。


武尊  指紋はさっき取れた、これ乃吾の所に持って行ってくれ。


志のぶ 華麗にスルーすんなよ、あ、網膜データとネックレスは?


武尊  彼女はここ何年も眼科を受診してない。

    乃吾たちはメインシステムへの侵入にかかりきりだし、いざとなれば直接デーダ取りする。
    ネックレスの方はもう少し時間が欲しい。


志のぶ そっか…ていうか乃吾にぃとダリア、手こずってるの?


武尊  あいつの悪い癖だよ。


志のぶ ダリアには甘いからなあ。どうする?


武尊  凛子に協力を頼んだ。
     

志のぶ ふーん?


武尊  なんだよ。


志のぶ 信頼して頼んだのか、ハニートラップの現場を見られたくないのかどっちなのかなと思って。


武尊  信頼してるからだよ。凛子だって子供じゃないんだ、わかるだろ。


志のぶ そっかそっか。


武尊  にやにやしてないで、乃吾にそれ渡してきてくれ。


志のぶ はーい。


武尊  じゃ、後でな。


N   そう言って手を振ると、武尊は雑踏へと消えて行った。

    姿が見えなくなるのを確認してから、後方へ向かって言葉を投げる。


志のぶ “ノゾキ”なんて趣味悪いんじゃない?


凛子  覗いてないわよ、堂々と見てたの。武尊だって気づいてるわ。


志のぶ ヤキモチ焼いてる?


凛子  そっちがでしょ?ブラコンだものね?


志のぶ 言ってくれるね。


凛子   それにしてもハニートラップなんて、しかも接触の仕方が『ベタ』なんじゃない?


志のぶ あの手の堅い女には、わかりやすく傷ついてる男の方がガードが緩むんだってさ。

    それと女って結局好きだろ?“ベタな展開”。


凛子  どこの情報よそれ。


志のぶ 妃貴優凪の個人情報をイヴのプロファイリングシステムにぶち込んでシュミレーションしたんだよ。


凛子  あのAIそんなこともできるの?


志のぶ できないことの方が少ないんじゃない?

    あいつがいなかったら、俺たちみたいな素人がここまでできないよ。


凛子  そんなこと…


志のぶ ないのは知ってる。(悪戯気に笑って)謙遜って美徳だろ。


凛子  (笑って)呆れた。


志のぶ やってやるよなんだって。武尊にぃがそう望むなら。


凛子  前から思ってたけど、乃吾もあなたも武尊に対しての忠誠心が尋常じゃないわね。


志のぶ 妬けるだろ。


凛子  まあね。


志のぶ 俺はさ≪武尊にぃの脚≫になりたいんだ。そう思ってここまで来た。


凛子  え?


志のぶ 今はどう思ってるのかわかんないけど…。

    武尊にぃも乃吾にぃも最初は俺が盗みに関わるのは反対だった。
    俺はまだ中学を卒業したばっかりだったし、今よりもっとガキだったから。
    …でも、どうしても俺は武尊にぃの脚になりたかったんだ。


凛子  志のぶ…。


志のぶ 7年前のあの事故がなかったら、きっと俺なんか必要なかった。


凛子  …。


志のぶ 武尊にぃって昔から何でも出来るんだ。

    頭も良くて帝都大サッカー部のエースでさ、でもそれがあの事故で…。
    母さんの事件のせいで大学もやめて、俺たちのために働いて…全部あの事故から始まった。
    武尊にぃの脚をダメにしたの…俺なんだ。


凛子  なに言ってるの、あの事故は…。


志のぶ 俺のせいなんだ。俺が頼んだから武尊にぃはあの車に乗った。
    あの日はサッカーのクラブチームの決勝戦だった。

    俺はレギュラーで武尊にぃも昔そうだった。
    「武尊の才能は逸材だ、伝説的なプレーをいくつも残した」っていつもコーチが言ってたよ。
    そんな兄貴を尊敬してた。

    だから…ソレをを自慢したかった俺はわがままを言った。
    俺が父さんに“武尊にぃを連れて試合を観に来て”なんて頼まなければ、あの事故には合わなかった。
    …だから俺は武尊にぃの脚になる。

    もちろん父さんやエヴァンヌさんの死の真相も知りたい。

    なんで母さんが出て行ったのかも。
    だけど、それ以上に俺は…。


凛子  そう…。


志のぶ …。


凛子  志のぶ?


志のぶ なんか、熱くなりすぎた…ごめん。


凛子  (微笑)嫌いじゃないわよ?そういうあなたも。

    武尊も頼もしい弟を持って幸せね。


志のぶ どうだろ?


凛子  自信ないの?


志のぶ ずっと満足はしてない。

    しちゃいけないんだ俺は…自分の存在価値を高めなくちゃ。

    じゃなきゃ心配性の兄貴に切られちまう。
    絶対に要らないなんて言わせたくないからな。


凛子  なるほどね。


志のぶ 今からラボに行くんだろ?


凛子  ええ。


志のぶ じゃあこれ、乃吾にぃ達に渡しといて。


凛子  わかったわ。あなたは?


志のぶ 俺は≪男子高校生≫してくるよ。それも仕事のうち。


凛子  行ってらっしゃい。

 

【2】

N   「そのまま入ってきて、ロックは解除したわ」と、

    まるで自宅に招き入れるようにダリアは電話口でそう言った。
    その通り、空地へ足を踏み入れた瞬間、無機質な扉が目の前にあった。
    ノックをすると疲れた顔をしたダリアが出迎える。


ダリア いらっしゃい、凛子さん。


凛子  どうしたの、その顔…寝不足?


ダリア そんな感じ。


凜子  乃吾は?
 

ダリア 奥で帝国美術館のメインシステムと格闘中。
 

乃吾  ダリア?急にいなくなるからびっくり…凛子さん。


ダリア Pardon (パードゥン)。声はかけたんだよ?でも集中しちゃって、聞こえてなかったみたいだから。

    ※ごめんね


乃吾  どうして彼女がここに?
 

凜子  こんばんは。 


ダリア おにーちゃんにお願いしたの。今回は随分時間がかかってるでしょ?


乃吾  そんな、彼女にそこまで迷惑をかけるわけには…
 

ダリア のん君。 


凛子  あら、なら帰りましょうか?
 

ダリア 待って!のん君、今回は凛子さんに手伝ってもらおう。
 

乃吾  どうしてですか、こんな大事な時にどうして…


ダリア 大事な時だからよ。

    今回、ダリアが帝国美術館のメインシステムの中枢に侵入するのにも時間がかかった。


乃吾  結果ハッキングには成功したじゃないですか。
 

ダリア ギリギリね。でもこの中枢を突破するための解析に一週間もかかってるじゃない。
 

乃吾  それは…… 


ダリア ダリアのわがままのせいでしょ!?


乃吾  ダリア…


N   彼女の瞳に涙があふれてくるのを見て、乃吾は口ごもる。 


ダリア 悔しいけど…(だんだん涙があふれてくる)ダリアにはまだ、あんな難解な暗号をとく頭も、

    ウイルスを何重にも仕掛けて攻防する腕もない!
    だけど…のん君は…ダリアがママのことで悩んでるの知ってるから…。

    ずっとダリアのミスをフォローしてここまでやらせてくれたんでしょ?


乃吾  それは…


ダリア わかってる。もともと無理やり仲間にしてもらったの!

    自分の能力もわからずに!!でも悔しいの!!
    …何もできない自分が…辛い。でももっと嫌なのは…
    のん君がダリアに甘っちょろい事。

    それをおにーちゃんもわかってて、のん君にダリアを任せてる事。
    ダリアもそれに甘えてる事…。
 

乃吾  …


凛子  ねえ、ぼうやたち。


N   張り詰めた空気の中、凛子が呆れたように口を開く。


凛子  随分睡眠をおろそかにしているようだから、ダリアちゃんはまず寝てらっしゃい。
    乃吾は少し糖分を摂った方がいいわ。


乃吾  大丈夫です。


凛子  大丈夫じゃないわ。

    フェミニストのあなたがダリアちゃんをこんな状態にまで追い込むなんてどうかしてる。
    本当はあなたにも寝て欲しいけど、それはこれが終わってからね。


乃吾  そんな勝手に…


ダリア わかった。ダリア、ソファで寝る。


N   目をごしごしとこすりながら、ダリアはブランケットを持ちソファへと潜り込んだ。
    数分もしないうちに小さな寝息が聞こえてくる。


乃吾  …。


凜子  最後だから…大事な壁を彼女に乗り越えさせたいのもわかるけど…。
    彼女まだ16歳よ、そんなに急がなくてもいいんじゃない?


乃吾  ええ…。


凜子  それに、他人を巻き込みたくないなんてお利口な事言ってたけど…あれ嘘でしょ。
    本当は大切な部分に他人を入れたくないだけ。家族大好きだもんね?
    でも今夜はその子供っぽい感情、捨ててもらうわ。
    あなた昔、私によく言ってたわよね。“

    『ビジネスに私情を持ち込むような真似しない』って。信じていいかしら?


N   そう言って彼を見据える凛子の瞳をにらみ返すと、

    おもむろに冷蔵庫からオールドファッションを取り出しレンジで温めだす。
    温まったのを確認して取り出すと、そこにチョコレートソースをまんべんなくかけ、

    かぶりとほうばった。甘みが体中に広がる。
    大きくため息をつくと、腕を組んでこちらを見つめたままの凛子に瞳を合わせた。


乃吾  ビジネスに私情を持ち込むような真似…ね…(微笑)誰に言ってるんですか?


凛子  あはは、あなたによ?ぼ・う・や。もうお腹はいっぱいになった?糖質て大事よね。


乃吾  ≪あなたが大嫌いだった時の事≫思い出しましたよ。


凛子  あら、私は最初からあなたの事、気に入ってるわよ。


N   赤い唇を嬉しそうに緩ませると、凛子はモニターへ目を向けた。


凜子  それで、帝国美術館は一体どんなセキリュティシステムを使っているの?
 

乃吾  新しく就任した館長は確かにやり手で…。

    このセキリュティシステムには難解なペアリング暗号が使われています。
    それも1011桁…3357ビットの。
 

凜子  聞いたことあるわ…確か2001年に開発されたセキリュティ?
 

乃吾  ええ。ペアリング暗号とは、離散対数問題に基づく暗号方式です。

凛子  楕円曲線暗号を発展させた方式ね。


乃吾  ご存じだとは思いますが、離散対数問題いわゆる対数値を求める問題のこと。
 

凜子  ということは…楕円曲線上の離散対数問題を解くとしても一部の曲線に必ず弱点があるはずよね?

    そこを叩けばいいんじゃない。
 

乃吾  ええ。攻撃法としては数式を使って初期値を最適化し、

    データ探索を二次元空間に拡張する必要があります。


凜子  後は、膨大な数値データから方程式の解を計算しなきゃいけないけど…ここはスピードが肝心ね。
 

乃吾  そこはイヴがフォローしてくれます。

    さらにはイヴが持つパワーを限界まで引き出す並列プログラミングを駆使することも必要で…


凛子  ねぇ?
 

乃吾  なんでしょう?


凜子  それだけわかってるなら…あなたこれ一人で出来るわよね?
 

乃吾  実はこのシステム…一定時間が過ぎると、すぐにエラーハンドリングを起こすみたいなんです。

    だから解析に時間をかけられなくて…。
 

凜子  ちょっと待って。

    エラーハンドリングって、本来の処理が正常に終了しなかった時に発生するエラーをトラップして、

    プログラムを正常な状態に復帰させる処理のことよね?
    トラップするって事は、ネットワークを通じて管理コンピュータに通報されてるんじゃ… 


イヴ  …問題ありません。 


凜子  え? 


乃吾  エラーハンドリングが起きる前にイヴがシステムを正常に終了してくれるんです。 


凜子  そんなことまで出来るのね。 


イヴ  問題ありません。  


凜子  それで、対処法は?どう考えてるの。 


乃吾  システムにウイルスを送り込み、ちょっとしたバグを起こして暗号を解析をする時間を稼ぎます。
    …ただ、このウイルスを送り込み続け、システムが修復しようとするのを邪魔するには手が足りなくて… 


凛子  なるほど…あ、でも彼女にできるんじゃない?


乃吾  彼女?
 

凜子  イヴよ。今まで聞いてる話だと、彼女とってもハイスペック。 


乃吾  俺もそう思ったんですが…
 

イヴ  私にはその機能は装備されていません。 


乃吾  これの一点張りで…。
 

凜子  (呟くように)作為的なものを感じるわね。


乃吾  え?


凜子  ああ、なんでもないの。

    じゃあペアリング暗号の解読はあなたが、私は解読が終わるまでウイルスを送り続ける。

    それでいい?


乃吾  ええ。


凛子  オーケー。それじゃあ、始めましょうか。
 

N   数時間後、携帯のコール音でダリアは目を覚ました。

    乃吾と凛子は真剣な面持ちでモニターに向かっている。


ダリア (眠そうに)ん…もしもしおにーちゃん?

    大丈夫…うん、今二人で…え?本当?わかった、そっち行くね。
 

乃吾  どうしたんです?


ダリア 夜食作ったから取りにおいでって。ダリア行ってくる♪
 

乃吾  もう夜遅いんですから…


ダリア ちゃんとタクシー捕まえるってば。じゃあ行ってくるね。イヴ、二人をよろしく。


イヴ  了解。いってらっしゃい、ダリア。
 

ダリア 行ってきまぁす。
 

N   少し眠って元気を取り戻したのか、足取り軽くダリアはラボを出て行った。


乃吾  (溜息)まったく。
 

凛子  (微笑)
 

乃吾  なんですか? 


凛子  彼女の前だと、天下の藤崎乃吾も形無しね。
 

乃吾  な…


凛子  あら、間違ってたかしら?


乃吾  どうだっていいでしょう、そんなこと…


凛子  照れちゃって、可愛い。
 

乃吾  馬鹿なこと言ってないで手を動かしてください。
 

凛子  動かしてるわよ勿論。あなたも動揺して間違わないでね?


N   余裕の表情でキーボードを打つ凛子に視線を移すと乃吾は頭を下げた。


乃吾  …すみませんでした。


凜子  え?


乃吾  確かに今回、俺はムキになっていたと思います。


凜子  誰にでもある事よ。


乃吾  …ダリアが言ってたんです。母親が殺された事をわかっていたって。


凛子  そう。
 

乃吾  いつから疑っていたのかは定かではありません。

    けれどダリアは頭のいい子でしたし、イヴもついていた。
    あの子は彼女を使って自分の母親や俺たち両親の事件を調べつくしたんです。
    母さんが放火事件を起こしてすぐに兄さんはフランスへ行きました。
    その旅の消息を追い、怪盗ムーラン・ルージュの真相にたどり着くのに、

    そう時間はかからなかったと思います。 


凛子  なるほどね……


乃吾  (意地悪そうな顔で)まあ、怪盗ムーラン・ルージュの尻尾を掴まれたのは…

    あの“愚弟”がヘマをしたからなんですけどね。
 

凛子  (苦笑)さすが志のぶ。
 

乃吾  ダリアは絶妙のタイミングでここの使用方法を教えることを条件に、俺たちの仲間に入りました。


凛子  絶妙のタイミングって?


乃吾  俺たちはほんの少し頭がいいだけの素人です。

    一度や二度盗みが成功したからといって、何度も逃げおおせるほど日本の警察は甘くはない。
    八方ふさがりのピンチに陥った時、ダリアとイヴが俺たちを助けてくれたんです。


凜子  大したものね。
    

乃吾  本当に女子高生らしくない…


凛子  それも、もうすぐ終わるわ。でも意外ね、あなたが私にそんな話をするなんて。


乃吾  相手の事を知りたい時は、まず自分の扉を開ける方がいいかなと思いまして。


凜子  あら、先手必勝って事?私の何が知りたいのかしら。


乃吾  なにか隠しているでしょう?兄さんに。 


凛子  残念、その質問には答えたくない。
 

乃吾  (溜息)だからあなたは気に入らない。なのにどうしてそんなに健気に兄さんに協力するんですか。
 

凛子  健気に見える?


乃吾  ええ、とっても。


凜子  (苦笑)そんな怖い顔しないで。

    そうね、あの子の言葉を借りるなら“私は私に出来ることはなんでもする”って決めたからよ。


乃吾  なんでも……ね。


凛子  ええ。


乃吾  …兄さんに怪盗ムーラン・ルージュの事を提案したのは俺なんです。


凛子  あなたが?


乃吾  犯罪者の息子である俺たちが正規に宝石見つける事なんてできない。
    だから犯罪者の息子らしく“盗む”ことを提案しました。
 

凛子  それって…
 

乃吾  イカれた考えでしょう?わかっています。でもそれしか方法はなかった。
 

凛子  …。 


乃吾  武尊兄さんや志のぶ、そしてダリアに犯罪行為をさせているのは俺です。俺には責任がある。
    兄さんはすぐ自分だけで背負い込もうとしますが、そんな事は許さない。


凛子  乃吾…。
 

乃吾  そして、あらゆる敵は俺が排除します。


凛子  物騒なこというのね。


乃吾  答えてください、あなたは武尊兄さんの…俺たちの“敵”ですか?
 

凛子  それはあり得ないわ。誓ってもいい。
 

乃吾  …その言葉、信じます。

 

 

【3】

N   男とは三か月前、職場近くのカフェで偶然出会った。
    彼は事故で左脚が不自由になったそうだが、それを悲観することなくいつも明るく笑っていた。
    何度か男の店へ行き、初めて出会ったカフェで偶然顔を合わすようになり、

    三か月たった今では頻繁に店へ通うようになっていた。
    これが“営業”というものなら“自分は完全にはまっているな”と自虐的に笑いながら、

    妃貴優凪は今夜も男の店へと足を運ぶ。
    

武尊  いらっしゃいませ…ああ、妃貴さん、こんばんは。


優凪  また、お邪魔しちゃったわ。


武尊  いつも、ありがとうございます。


優凪  ここに来た日はね…いつも心地よく眠りにつけるの。最近あまり眠れないからまた来ちゃったわ。


武尊  大丈夫ですか?


優凪  大丈夫よ、警備の打ち合わせが夜通し続いててね。


武尊  そうですか、お疲れ様です…今夜は何を?


優凪  武尊君に任せるわ。ああ、そうだ、今日はね、どうしてもこれを渡したくて…


武尊  え?


優凪  喜んでもらえると嬉しいわ。


N   優凪は綺麗に包装された長方形の箱を渡した。


武尊  何だろう、開けてもいいですか?


優凪  ええ、是非。


N   丁寧に包装をはがし、箱を開ける。


武尊  これ、ヴァトゥーの…


優凪  そうよ、レプリカだけど彼の弟子が模写したっていう年代ものなの。

    あなたの好きなアンティーク。額縁は私の好み。


武尊  (微笑)最初言ったこと覚えてくれてたんですね。


優凪  もちろん。


武尊  額縁もすごく綺麗です…でもこれ高価なものなんじゃ。


優凪  いいの、あなたに持っていて欲しいのよ。
    パリスの審判…ルーブルに展示してある中でもわたしはこの作品が一番好きだから。


武尊  彼の晩年の作品ですね。


優凪  そう。でも最初は彼の作品じゃなくて、そのレプリカを描いた唯一の弟子であるパテールが作者だって

    言われてたの知ってる?


武尊  へえ、知らなかった。


優凪  今では彼の作品だと認知されているし、ロココ美術を代表する裸婦像画としても有名だからみんな忘れ

    てるけどね。トリビアでしょ?


武尊  本当ですね。


優凪  じゃあ、このパリスの審判にまつわる神話は?


武尊  (笑って)いじわる。それ初めてお店に来てくれた時に聞いた話ですよね。

    僕が覚えてるかテストですか?


優凪  あはは、そんなつもりないわ。覚えててくれたら嬉しいなって。


武尊  もちろん覚えてますよ。パリスの審判はローマ神話のひとつ。


優凪  正解。


武尊  争いの女神エリスが、最も美しい女神が手にするよう、

    神々の饗宴(きょうえん)に黄金の林檎を投げ込んだ。
    それをめぐり立ち上がったのが…

    ローマ最大の女神ユノ、愛と美の女神ヴィーナス、知恵と戦争の女神ミネルヴァ。
    そして彼女たちの中から最も美しい女神を選定したのが、

    トロイア王国の王子でもあった羊飼いパリス。


N   武尊は絵を指でなぞりながら、言葉を続ける。


武尊  傍らにクピドを伴い、裸体の姿で配置されているヴィーナス。
    武装し長槍を手にするミネルヴァ。彼女は忌々しそうな表情を浮かべている。
    この描写は、王の画家にして、画家の王と呼ばれるほど。
    そういえば、上空を飛行しながら沈黙を表すように描かれている女神ユノの解釈には、

    いくつか説があるんですよね?


優凪  あなたそれ…


武尊  確か有力なのは、パリスにより選ばれたヴィーナスを祝福するニンフとする説…あってますか?


優凪  あってるわ。


武尊  理由は美の女神ヴィーナスの典型的な象徴である≪帆立の貝殻≫を手にしているから。
    それに対して、女神ユノが悔しがる姿を改変したっていう説もある。

    他の作品と比較して明らかに完成度が低いことから、未完の作品とされている『パリスの審判』。
    けれど、この絵画から醸し出される独特の雰囲気やその表現は…

    彼が手がけた神話画の中でも白眉の出来栄え…なんですよね?


優凪  驚いた…。


武尊  妃貴さんが好きだって言うから、ほとんど丸暗記ですけどね?覚えてみたんです。


優凪  そう…ありがとう、本当にびっくりしたわ。


武尊  でも、どうしてそんなに?


優凪  …彼とは境遇が似ているの。


武尊  だから彼の画集をお守りにしてるんですか。


優凪  ええ、子供のころからずっと。
    彼の悲劇とも言われる短い生涯は、数多くの耽美な虚構に彩られているわ。
    だけどルーツは真実よ。彼は地方の貧しい家庭の生まれで、父親は乱暴な人だった。
    お金も無いままパリに出てきた彼は、幸運なことに有名な装飾画家の助手を務めることになったの。
     
    彼は二人の師に導かれて『雅やかな宴』というジャンルを創出し、

    雅宴画の世界で抜きん出た業績をなすことに成功した。


武尊  色彩の魔術師。


優凪  そう…けれど彼は結核のためこの世を去る…37歳という若さでね。
    

武尊  優凪さんは長生きしてね?


優凪  どさくさに紛れて下の名前で呼ばないで。


武尊  いけない?


優凪  その顔ずるいわ。


武尊  最近そればっかり言われてる気がする。


優凪  そんな事ばかり言うからよ。…(困ったように笑って)ダメね。


武尊  なにが?


優凪  私、実家での暮らしが嫌で嫌で逃げるように上京してきたの。
    こちらに来てからは運にも恵まれて…仕事があればそれでいいってキャリア至上主義で生きてきた。
    なのに最近は≪それ以外のモノ≫も欲しくなってる。


武尊  そうなの?


優凪  あなたのせいよ?わかってるくせにとぼけないで。


N   武尊はふわりと笑うとカクテルを作り始めた。

    シェーカーを振りグラスに注ぐ一連の所作に思わず見とれてしまう。


武尊  これ飲んで?プレゼントのお礼に今夜は僕のおごり。


優凪  駄目よそんなの、仕事して。


武尊  したくないって言ったら?


優凪  馬鹿ね、おばさんをからかわないで。


武尊  (微笑)からかってない。それに優凪さんはおばさんじゃない。


優凪  そうやって何人の女をその気にさせたのかしら。


武尊  リップサービスと本気は使いわけてる。


優凪  へえ?


武尊  もし僕が“お客さま”として女性を落とすなら、ルシアンをたくさん飲ませてタクシーを呼ぶね。


優凪  レディ・キラーね…なるほど。じゃあこのカクテルの名前は?


武尊  エンジェル・キス。


優凪  初めて聞くわ。甘い…カカオ?


武尊  そう。…花言葉みたいにカクテルにも意味があるって知ってる?


優凪  いいえ。このカクテルにも意味が?


武尊  うん、知りたい?


優凪  勿体ぶらないで。


武尊  ≪あなたに見惚れて≫


優凪  …展示はきっと年明けになるわ


武尊  え?


優凪  アントワーヌ・ヴァトゥーよ。


武尊  ああ、楽しみだね。


優凪  ええ、楽しみにしていて…私も彼に関しては特に強い思い入れがあるから。


武尊  (微笑)さっきの話でよくわかったよ。


優凪  …これ、エンジェル・キス、気に入ったわ。


武尊  じゃあ、これも…


N   武尊はカウンター越しに優凪の頬を引き寄せ、驚いた彼女の瞳を見つめながら唇を重ねる。


武尊  気に入ってくれた?


優凪  一度じゃわからない…っ。


N   彼女が言い終わるの待たずに武尊は何度も彼女と唇を重ねる。 

    瞳を閉じ、少し震えた優凪の首に光るネックレスを確認すると、耳元で囁いた。


武尊  今夜はきっとよく眠れるよ。


優凪  え…?


N   「どういう事?」と尋ねる前に、彼女は武尊の腕の中で意識を手放す。
    彼女をゆっくりとカウンターに寝かせ、その首元からネックレスをはずすと、

    武尊は店の看板を“CLOSE”に代え…明かりを消した。

 

 

【4】

フラン 朝帰りかい?色男。ハニートラップは成功かな?


N   昨夜の香りを纏いながら帰宅の途につく武尊を、自宅前で二人の白人の男が待ち構えていた。
    一人は不機嫌そうに、そして一人は相変わらずにやついた様子で。
    その相反した様子に口元がほころぶ。


武尊  待ち伏せか、ファニー。隣の美人が嫉妬するぞ。


毬緒  馬鹿な冗談はやめなさい。時差ボケで眠たいんです。いくらあなたでも刺し殺してしまいそうだ。


武尊  あはは、怖い事言うなよ、毬緒。久しぶり、3、4年ぶりか…仕事でこっちに?


毬緒  ええ、お久しぶりです。


武尊  はるばるフランスからようこそ。寿司でも奢るから許してくれ。


毬緒  …回るやつですか?


武尊  え、そっちがいいのか?


毬緒  ファニー、早く武尊にプレゼントをお渡しなさい。そして早々に回る寿司屋へ行きましょう。


フラン ははは、そう急かすなよ毬緒。回転寿司ならシャンゼリゼ通りにあるじゃないか。


毬緒  いいから早くなさい。


武尊  プレゼント…?まあ立ち話もなんだし入れよ。すぐコーヒー淹れるから。


N   武尊は自宅に彼らを招き入れ、今までの経緯を話しながら熱いコーヒーを淹れ始めた。


フラン なるほど、とうとう君の目的が果たされるってわけだ。


武尊  …。


フラン 武尊?どうしたんだい?


武尊  これで終わりってわけじゃない。
    …フランスにさ、こんなことわざあったろ。

    探し求める探求者はそれを見つける。しかし、見つけた探求者はそれを探し求めるだっけ?


毬緒  終わりがないとでも?


武尊  さぁ…どうだろうな。


フラン 人生は探求してこそだよ。…では、本題に入ろうか。


毬緒  武尊、あなたにプレゼントです。


N   彼は手に持っていたトランクを武尊の前に差し出す。


毬緒  開けてください。


武尊  …これは?


N   中には見たこともない筒状のマシンと、硬い鉄状の板、そしてマイクロチップが入っていた。


フラン 君の左脚用のプロテクターだよ。ただし、ただのプロテクターじゃない。

    装着することで筋肉・靭帯・神経を活性化させ運動能力をあげることができる。


武尊  走れるってことか?


フラン ふ、ふ、ふ、それだけではないんだよ武尊!このプロテクターには…


毬緒  ファニー、順序を追って説明すべきです、武尊をぬか喜びさせないでください。


武尊  え?


毬緒  確かにこのプロテクターは脚の基本能力を驚くほど上げることができる。

    けれど、条件があるんです。
    負荷がかかる脊髄に超合金の板を入れ緩和し、大脳にこのチップを埋め込む事で、

    本来の力が発揮される。


武尊  …は?話がどんどん見えなくなってるんだけど。
    

毬緒  武尊、よく聞いて、そして理解し、答えを出してください。


武尊  なんだよ二人とも怖い顔して…。


フラン 世の中には通常の人間の能力や常識では計り知れない力を持った人間が造られている。

    そうだとしたら…君はどう思う?


毬緒  イヴを見ているならわかるはずです。


フラン 「我々人間は潜在能力の10%しか引き出せていない」と、かの有名なアインシュタインは言った。
    例えば新薬か何かで、残り90%の脳の力を覚醒させることができたとしたらどうだろう。
    異常に感覚が進化した人間、異常な身体能力、運動能力を発揮させた人間、

    異常に優れた頭脳を持っている人間…。
    もし脳や身体を開発することで特殊能力者を作り出し悪用しているとしたら。
    特殊な能力で、他人の命や財産、果ては社会的地位、もしくは、政権を狙いだしたとしたら。 
    そのことに各国の政府は気づいていて、水面下ではすでに暗闘が繰り広げられているとしたら…。


武尊  …。

    
フラン 武尊、君が追っている≪なんらかの組織≫ってやつがそういう人間たちの集まりだとしたら、

    君はどう戦う?


武尊  俺の脳を覚醒させればどうにかなるっていうのか。


フラン 残念ながら“我々”は脳の残りの90%を覚醒させることはできない。

    けれど今の状態を格段に飛躍させることは可能だ。


毬緒  あなたの脚が思うように動かないのは、脊髄と脳に損傷があるからです。
    プロテクターで器官を補えば“ただ走る”ことは可能だ。
    しかし我々が発明したこのチップを大脳に埋め込み脳覚醒を促進させれば、

    2、30%脳を使う領域を広げ、常人以上の能力を発揮させることができる。


フラン ただし、成功率は70%だ。副作用が100%無いとは言い切れない。


毬緒  “10%神話”と呼ばれるこの夢のような発想が現実になるなら、

    それによってあなたの脚が全盛期以上のものになるとしたら。
    そして、あなたが追っている組織と戦うことができる可能性が広がるとしたら…

    あなたはそれに賭けますか?


武尊  ちょっと待ってくれ、話の展開が急すぎて…おまえたち≪しがない公務員≫だって言ってなかったか?


フラン そうだよ、しがない公務員だ。間違いない。


毬緒  我々の役目を説明する前に、武尊にはまず選択をしてもらいたい。

    賭けに伸るか反るか…判断を。あと二か月、時間はない。


フラン 武尊、選ぶんだ。


武尊  ファニー、いつも“血の運命で繋がってる”なんて言ってるんだ。俺の答え、わかってるだろ。
    …この脚が動くなら、俺にもっと力が手に入るなら。なんだってやってやる。


フラン (微笑)さすが、僕が見込んだ君だね。

アップル オブ ディスコード編 END

bottom of page