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祇園×エンヴィ
#なきぬれ月夜の揺籃歌(ベルスーズ)
 

時間90分(演者者様の間のとり方によって時間が変動します)

比率(♂:♀:不問)2:1:1

※にいな役が不問となります

 

登場人物

・壬生 一晟(みぶ いっせい             

・壬生 香夜子(みぶ かやこ)

・結弦(ゆずる)

・にいな


・壬生 旭陽(みぶ あさひ)※セリフはありません
▶️かりそめ兎の子守唄

香夜子:(M)もしも、あの花曇りにあなたと出逢わなければ

    舞い散る花びらは光差すこと無く色褪せて見えたでしょうか。

    もしも、陽炎もえる日を共に過ごさなければ

    蛍のささやかな輝きがあんなにも美しいと思うことはなかったのでしょうか。

    もしも、山粧うあの家に私が戻れるのなら

    あなたの本音も隠し通していた涙さえも慰めることができるのでしょうか。

    もしも、あの乙子月(おとこづき)に強い心を持てたなら

    今も二人で寄り添いながら、この子を抱きしめ眠れたのでしょうか?

 


一晟:祇園


結弦:エンヴィ


香夜子:なきぬれ月夜の


にーな:揺籃歌(ベルスーズ)

 


一晟:(M)祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)を渡ると、

   すぐ傍に“祇園のお稲荷さん”と呼ばれる小さな神社がある。
   その神社の脇の小道をすりぬけると古い骨董屋の暖簾が見えてくる。

   暖簾をくぐると白髪(はくはつ)の老婆が無愛想に『おこしやす』と声をかけてくるのだが、

   ここで本来『香炉を探している』と尋ねる所を私はこう答える。

   『茶器を探している』と。

   するとすかさず老婆は『どんなお茶を淹れはるんどすか?』と聞いてくるので、

   その問いには必ずこう答えなくてはいけない…

   『伽羅茶(きゃらちゃ)』だと。

   その答えを聞くと、老婆は奥の離れへと続く扉を開け案内してくれる。
   知る人ぞ知る高級青楼(せいろう)『伽羅館(きゃらかん)』の女主人、

   月虹渚(げっこうなぎさ)の元へと……。

 

 

 


【祇園白川・高級青楼“伽羅館”別邸】

一晟:(M)薄暗い石畳を進むと程なく出口にたどり着き、

   眩しい光と美しい緑が眼前に飛び込んでくる。
   私はそれに目を細めながら、西洋風の重たげな扉に付いている叩き金を鳴らした。

 

にいな:お入り。


一晟:(M)どこからともなく声がすると、扉の施錠が外れる音が聞こえる。
   扉を開け、中に入ると不思議な香りに包まれるのを感じた。


にいな:よく来たね。そのまま奥へ。


一晟:(M)言われるまま奥へと進む。
   長屋とはいえ、どこまで続いているのだろうか。
   真っ直ぐ進んでいるだけなのに迷路に迷い込んだ錯覚を起こす。
   ふいにガチャリと扉の開く音がすると、

   着物姿の齢(よわい)幾ばくもない二人の少女が私を迎えた。


にいな:ご苦労さん。おまえ達は部屋に行ってな。

 


一晟:不思議に響き渡る声でそう言われ、

   彼女たちは私ににっこりと微笑むと揃ってお辞儀をし、

   どこかへと行ってしまう。
   背中を見送る私に彼女が声をかけた。


にーな:やぁ、壬生屋の旦那。恙(つつが)無いかい?


一晟:“そうだね”と言いたい所だけれど、そうもいかなくてね。


にいな:だろうな。


一晟:君もわかっていて聞くのだろう?意地が悪いな。


にいな:ふふふ、これくらいで音を上げてはいけないよ。


一晟:もちろん。それはそうと…(言い淀む)


にいな:あの娘(こ)は元気にやっている。とても聡い子だ。


一晟:ああ…ありがとう。あの娘(こ)は…いくつになった?


にいな:もうすぐ十(とお)だ。忘れてやるな。


一晟:すまない。ここ数年、目まぐるしくてね…時間の感覚が無いんだ。


にいな:……奥方は息災か?


一晟:勘のいい君の事だ……もう察しているのだろう?


にいな:いつ?


一晟:一週間ほど前に。静かな最期だったよ。


にいな:そうか。迎えには来れなかったか…


一晟:今後の事も含め君に相談したくてね。
   それに、聞いて欲しい事もある。
   いつか話すと言って、もう十年も経ってしまったけれど。


にいな:懐かしいねえ。
    『なにも聞かずこの娘を預かってくれ』そう言ったきりだったか。


一晟:君にはすまない事をした。


にいな:いいさ。あの娘もうちに縁が無いわけじゃない。


一晟:やはり知っていたんだね。


にいな:全てではないよ。それに…あんな奥方の姿を見て放ってはおけない。


一晟:ありがとう、月虹渚(げっこうなぎさ)。


にいな:前にも言っただろう?その名は次にやった。
    今はただの“にいな”だ。


一晟:(ふっと笑って)そうだったね…。


にいな:なにか可笑しい事でも?


一晟:失礼。懐かしいなと思っただけだよ。

   ただ…本当に懐かしいなと。
   …ここに来て君と話していると、まるで時が戻ったように感じてしまってね。


にいな:時が戻ればと願っているのかい?


一晟:そうだな。

  (考えを巡らせるが振り払って)…いいや。

   きっと私は同じことを繰り返す。
   心根はなかなか変わらないよ。


にいな:(笑って)致し方ないさ。
    さぁ、積もる話の前に酒でも飲もう。


一晟:こんなに早くから?


にいな:なにか問題が?


一晟:いいや。頂こう。


にいな:そう来なくてはね。


一晟:(M)細い指でグラスを選びながら妖艶に笑う彼女は、正に美しき伽羅女だった。 

   高級青楼“伽羅館”は祇園の地下奥深くにあるもう一つの花街である。
   選ばれた者しか入ることの出来ないこの館の存在を知る者はさほど多く無い。
   ありとあらゆる権力者の密談がこの伽羅館で行われ、

   伽羅女である彼女たちがその場を取り仕切り、時には教授した歴史もあるとか。


にいな:昔ほど、格式は無いさ。


一晟:(M)そっけなく言葉を放つ彼女は、伽羅館の最高位である紫雲(しうん)の“元”伽羅女である。
   見る者によって印象の変わる不思議な彼女。

 

   名は月虹渚(げっこうなぎさ)、呼び名を『にいな』という。

   少女のようだと言う者もあれば、色香あふれる成熟した女だと言う者もあり、

   中性的だ男性的だと言う者もある。
   ただ、皆が口を揃えて言うのは-痲薬の様な女-であるということ。


   伽羅女時代の彼女を一度口にすれば離れる事が叶わなくなり、

   彼女を求めて禁断症状が出る者も後を絶たなかったとか…。

   その魅力は未だ健在。

   吸い込まれそうになる私をよそに彼女は悠々と言葉を重ねる。


にいな:酒はいつも何を?


一晟:最近はウイスキーばかりかな。


にいな:割り物は?


一晟:ストレートで。


にいな:ではグラスはこれにしよう。
    年代物が確かここに…ふふ、あったぞ。


一晟:(M)透き通ったクリスタルグラスに琥珀色の液体が広がり、それを彼女が私へと掲げる。


にいな:さあ…。


一晟:ありがとう…(ウイスキーを口に含む)


にいな:では…聞かせてもらおうか。


一晟:そうだね…いつから“ああ”なってしまったのか。
   私が事の重大さに気づいた時にはもう手遅れだったのかもしれない…。

 

 


-十年前-
【壬生屋菓寮 壬生家本宅】
(うとうとと眠りにつく小さな息子を優しく撫でながら子守唄を歌う香夜子)

香夜子:揺籃(ゆりかご)のゆめに
    黄色い月がかかるよ
    ねんねこ
    ねんねこ
    ねんねこよ


(先程の出来事を思い出す)


香夜子:(M)務めを果たさぬ女め。
    おまえは本当に役立たずの木偶の坊だ。
    …それが義母の口癖。

    はやく次の子を作れと、それが出来ぬのなら一晟(いっせい)に他所で子供を作らせると私に詰め寄る。

    私は畳に額を擦り付け、壊れた機械のように繰り返し謝り続ける。
    そんなことしかできない自分を呪いながら…。


(同じ歌詞を何度も歌いながら、息子が眠りについたのを確認すると次第に涙ぐんでゆく)

    揺籃(ゆりかご)のゆめに…
    黄色い月が…かかるよ
    ねんねこ
    ねんね…こっ……うっ…

(堪えきれず嗚咽が漏れ、泣き崩れてゆく)

       

    ごめんね…元気に産んであげられなくて……本当にごめんなさい。ごめ…んなさ……っ


一晟:香夜子(かやこ)…?


香夜子:っ…


一晟:また一人で泣いていたのか…泣きたい時は私を呼んでとあれほど…


香夜子:「泣かないで」と言うじゃない。


一晟:君の涙を見るのが辛いだけだよ。君にはずっと笑っていて欲しいんだ。


香夜子:お義母様が許さないわ。


一晟:え?


香夜子:へらへら笑っておかしな人形のようだと…だからおまえは壬生家の嫁らしくないと叱られるのよ。


一晟:母の言うことは気にしなくていい。


香夜子:……。


一晟:香夜子?


香夜子:…できる…はずない……。


一晟:え……


香夜子:そんな事できるはずない。そんな事できるはずがないのよ。
    あなたが居ない間、私がどんな扱いをされているか知らないでしょう。
    理解出来るはずもない。理解しようともしない。
    あなたはお義母様にも私にもいい顔をして優しくするだけ。
    それがどんなに残酷か考えもしないで。真綿で首を絞められた私は今にも死にそうになるの。
    いっそ死んでしまえたらどんなに楽かしら…


一晟:香夜子…


香夜子:そんな目で見ないで…私を見ないで。あっちへ行って、いや…いやよ。


一晟:落ち着きなさい。


香夜子:いや、触らないで。


一晟:(優しく語りかける)聞いて、お願いだから。


香夜子:……。


一晟:比叡山の近くの別荘を覚えているかい?
   君が気に入っていたスウィングチェアのある。


香夜子:…緑の屋根の?


一晟:そうだ。


香夜子:懐かしい…。


一晟:古くなったからしばらく行っていなかったけれど、改修工事が終わったと連絡があったんだ。


香夜子:……。


一晟:この家を出よう。
   君の為にも…小さなこの子の為にも。


香夜子:一晟さん…(笑みを零すがすぐに表情は暗くなる)お義母様は許してくれる?


一晟:母もわかってくれる。


香夜子:……。


一晟:私は君が……


香夜子:邪魔?


一晟:え…?


香夜子:邪魔なの?邪魔なんでしょ?私なんか要らないんでしょう?
    ああ…健康な跡取りを埋めなかった私を追い出したいのね。
    そうに違いないわ。酷い人。優しい言葉で騙して…本当に…酷い人。


一晟:私はそんな風に思っていない。


香夜子:嘘。嘘よ…


一晟:本当だよ。ねえ、香夜子こっちを見て。私の話を…


(眠っていた息子が起きてしまい、泣き声をあげる)


香夜子:泣かないで…よしよし。ほら…おいで。ごめんね…ごめんね……。


一晟:(M)泣きじゃくる我が子を抱きながら、彼女もまた涙する。
   私はそれを眺める事しかできず…不甲斐ない自分を責めながら、

   環境を変えればなんとかなるだろうと安易な考えを巡らせていた。
   本当に…なんと浅はかだったのだろうか…。

 

 

【数日後、比叡山近郊 壬生家別宅】

香夜子:優しい優しい、憎らしいあなた。
    私の事を労わってくれるほど、

    私を庇ってくれるほど、

    私が死ぬほど惨めになると気づかない。

    その美しい笑顔が眩し過ぎて、私の淀みは黒い影を増す。
    仄暗いその中で私は声にならない叫びをあげ続ける。
    誰も助けてくれるはずなどないのに。


結弦:あなたが香夜子さん?


香夜子:え…?


一晟:結弦(ゆづる)。久しぶりだね元気にしていたかい?


結弦:兄さん。うん、お陰様で。連絡ありがとう。


一晟:香夜子、紹介するよ。弟の結弦だ。


結弦:初めまして。


香夜子:……。


一晟:香夜子?


香夜子:っ…ごめんなさい。弟さんがいるなんて知らなくて…驚いてしまって。


一晟:すまない。早く紹介したいと思っていたんだが…


結弦:弟と言っても俺は妾の子だからね。


香夜子:妾…?


結弦:大旦那様の死後は表向き絶縁状態だったんだ。
   壬生の大奥様の手前、兄さんがあなたに伝えられなかったのも無理はない。


一晟:結弦…お前には辛い思いばかりさせて本当に申し訳ないと思っている。


結弦:なに言ってるの。俺は兄さんに感謝しかしていないよ。
   今回みたいに頼ってくれるのだって、とても嬉しいんだから。


一晟:ああ。


香夜子:……。


一晟:香夜子。私は仕事があるから毎日この家に帰って来れない。


香夜子:…わかっているわ。


一晟:すまない。できるだけ君たちのそばにいられるようにするから。


香夜子:いいのよ。大切なお仕事ですもの。


一晟:私がいない間の事は全て結弦に任せてある。
   困り事があれば彼を頼って。必ず力になってくれるから。


香夜子:そう…。


一晟:では私は仕事に戻るよ。荷物は全て揃っているはずだけど、何か足りないものがあればいつでも連絡して。


香夜子:ええ。


一晟:結弦、あとは頼んだよ。


結弦:うん、任せて。いってらっしゃい。


(一晟、車へ乗り込みその場を後にする)


香夜子:……。


結弦:さてと…ここに来た事もあるんだよね?
   その当時とは変わってる所もあるだろうから、ひとまず案内するよ。


香夜子:あの、一晟さんはああ言って下さってましたけど…私なら一人で大丈夫です。


結弦:へえ…本当に?


香夜子:はい。


結弦:なるほどね。聞けば壬生お抱えのお手伝いも解雇したって言うじゃない。


香夜子:……。


結弦:他人と接するのは苦手?

   それともそんなに大奥様の息がかかった人間と接するのは嫌?
   後者なら心配しなくていい。

   俺は大奥様に嫌われているから。


香夜子:一晟さんからどこまで聞いてらっしゃるか知りませんが…


結弦:兄さんが言うわけない。

   わかるでしょ?あの人の性分をさ。


香夜子:じゃあどうして…


結弦:大奥様や兄さんに内緒で色々教えてくれる人がいる。

   ただそれだけ。
   だからあなたの事も昔から知っているよ。


香夜子:どうせ…気が触れた女だとでも聞いていたのでしょう。


結弦:あはは。聞いていたより随分気の強いお嬢さんだって事はわかった。


香夜子:失礼な人ですね。


結弦:そう?あなたこそ兄さんの計らいを無下にする失礼な人なのかな?


香夜子:……。


結弦:兎に角、俺は大奥様にめっぽう嫌われているから心配には及ばない。
   それに小さい子を抱えてこの家で一人は大変だよ?
   俺は掃除も好きだし、料理の腕にも自信がある。

   子供の世話だって得意だ。
   何日か一緒に過ごしてそれでも嫌だって言うなら引いてあげるから、とりあえず譲歩してみない?


香夜子:…わかりました。


結弦:(笑って)そうこなくちゃ。改めてよろしくね、姉さん。


香夜子:(M)そう笑う彼の背中越しに桜が舞い散り、雲間から光が指す。

    もしも、あの花曇りにあなたと出逢わなければ

    舞い散る花びらは、光差す事無く色褪せて見えたでしょうか。
    けれどもし、あなたとあの日出逢わなければ…私の心が救われることはなかったでしょう。

    例えあなたが私を憎んでいたとしても。

 

 


【祇園白川・高級青楼“伽羅館”―紫雲の間―】
(くつろぐ月虹渚を描く真剣な面持ちの結弦。)

結弦:ねぇ、にいな。


にいな:なんだね。


結弦:どうして俺に仕事をくれるの?


にいな:この月虹渚(げっこうなぎさ)を描くのは不満だとでも?


結弦:そんな事は言っていないよ。
   …ただ、絵描きはこの街に沢山いるし、君を描きたい人間は星の数ほどいる。
   なのに俺に描かせるのはどうしてかなって。


にいな:おまえに描いて欲しい。


結弦:自分の力量は知ってる。


にいな:ほう…この答えではご不満か。
    ならばいくらでも理由をあげよう。
    どんな言葉をあげればおまえは満足できる?


結弦:母さんへの義理立て?それとも兄さんから頼まれた?


にいな:ふふふ…。


結弦:何がおかしいの?


にいな:自由な振りをしてカゴに囚われた小禽(しょうきん)のようだ。


結弦:流れている血がそうさせるのかもね。


にいな:そう言いたくなる気持ちもわかるが、自分の売り方にはもう少し頭を使った方がいい。
    聡いおまえにしてはあまりにも―――


結弦:誰から聞いた?


にいな:人の口に戸は立てられないからね。


結弦:どこまで知ってるのさ。


にいな:才能以外の物もくれてやっていると。


結弦:ある意味アレも才能だと思うけど。


にいな:戯言を。


結弦:きみらとしてる事は変わらないのになぜ?


にいな:違うね。


結弦:何が違うっていうのさ。


にいな:何もかもだ。わからないほど阿呆ではないだろう?


結弦:…俺に仕事をくれる理由がそれ?


にいな:結弦の顔がみたいからだよ。


結弦:は?


にいな:手が止まっているようだが?


結弦:怖い女。


にいな:わかりきった事を。


結弦:あーあ。毒気も抜かれて喧嘩も売れやしない。


にいな:ふふ。そういえば、壬生の旦那の子うさぎ達は息災か?


結弦:子うさぎ?ああ…奥方と息子の事?
   心臓が弱い幼子にしては元気だよ。母親は聞いていたより随分と生意気だ。


にいな:うさぎは存外、気が強い。噛まれないよう心するがいいさ。


結弦:彼女を知っているの?


にいな:……。

 

(回想)
香夜子:主人がいつもお世話になっております。


にいな:こちらこそ、壬生の旦那はんにはいつもご贔屓にして頂いとります。
    紫雲の伽羅女、月虹渚どす。どうぞ『にいな』と呼んどくれやす。


香夜子:……。


にいな:奥様?


香夜子:あの、まさかあなたにお会い出来ると思っていなかったので、その……


にいな:ふふ、本来どしたら手順を踏んで頂かんと一見さんはお断りさせて頂いとりますさかいな。
    せやけど、今宵は特別どす。


香夜子:…騒いで申し訳ありませんでした。


にいな:日常茶飯事…とは申しまへんけど、無い事でもあらしまへんしだいじおへん。
    それに奥様の窮余の一策を無下にしとうない。
    うちの伽羅女にも落ち度があったと下の者(もん)に聞いとります。
    どうか、堪忍して下さい。(深々と頭を下げる)


香夜子:…随分簡単に頭を下げてしまわれるのですね。


にいな:奥様の溜飲が下がるんやったら、安いもんどすえ。


香夜子:本心の見えない方。


にいな:それがうちら伽羅女どす。


香夜子:私が謝罪を受け入れれば、主人がまたこちらでお金を落とす。
    そこで得られる利益に比べれば安いということですか?


にいな:どう取って頂いてもかましまへん。壬生の旦那はん付きの伽羅女も別に用意致します。
    ただ、ひとつ……覚えといとくれやす。


香夜子:……。


にいな:奥様が踏み込めるんはここまで。
    この意味を賢い奥様でしたらおわかりいただけますな?


香夜子:わかりました。でも……そちらに烏滸(おこ)の沙汰あれば私は何度でも来ますから。


にいな:(にっこりと笑って)へぇ、おおきに。
(回想終わり)

 

結弦:ここでだんまりは狡くない?


にいな:(笑って)すまない。何度か噛み付かれた事を思い出してな。


結弦:噛み付かれた?なぜ?


にいな:他愛のない事さ。


結弦:へえ…あの子、案外嫉妬深いとか?


にいな:嫉妬とはまた違うだろね。ただ、壬生の旦那は誰にでも花を振り撒く男だから。


結弦:昔から変わらないな…。周りも悪いんだよ。
   振りまかれる花に荊棘(けいきょく)も毒もあるとも知らず拾うから馬鹿を見る。


にいな:毒に侵されてしまえば痛みも感じんのだよ。


結弦:俺もきっと……


にいな:ん?


結弦:その毒に侵されてるんだろうな。


にいな:なんて顔をしてる。


結弦:(M)反射的に化粧台の大きな鏡を覗き込む。
   なんとも形容し難い表情をしている俺に向かって鏡越しに彼女が言葉を放つ。


にいな:おまえも心に修羅を飼っているようだ。


結弦:(M)そう鏡の中で嗤う赤い唇。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 


【比叡山近郊 壬生家別宅】

香夜子:(M) 灼くる日や。
    比叡山からの冷気が降りてくるとはいえ、やはりこの街の朱炎は厳しい。
    私は一晟さんからの山鉾巡行への誘いに応じる事もできず閨に閉じこもっていた。
    そんなある日、それは届いた。
    何通も……何通も。


結弦:(真夏の日差しを見上げて)あっつ…。今日も日差しが強いな。


(幼子の泣き声が聞こえる)


結弦:…ん?子供の泣き声?


香夜子:…どうしてそんなに泣くの。お母さんが嫌いなの?
    あなたがそんなだからお義母様からあんな惨(むご)たらしい手紙が来るのよ…?
    ねえ、それがどんなに辛いことかわからないの?

    ああ…泣かないでお願い。お願いよ。

    やめて……(そう言って息子の口をふさぐ)そうよ…静かにして……静かに―――


結弦:何やってるんだ!


(幼子から香夜子を引き離し突き飛ばす)


香夜子:痛っ


結弦:殺す気かよ?!


香夜子:殺…す……?


結弦:おいで、よしよし……泣かなくていい。もう大丈夫だから。


香夜子:私……違うの……違う……


結弦:なにが違うんだよ。


香夜子:私にはその子しかいないの。返して。


結弦:ふざけるな。


香夜子:っ……


結弦:水でも浴びておいで。この子は俺が見てるから。


香夜子:でも……


結弦:いいから行けよ。これ以上は言葉を選べない。


香夜子:……(その場を離れる)


結弦:はぁ……(きょとんと見上げる幼子に向かって)よし、俺と遊ぼうか。そら、高い高ーいっ。
   ん?あはは、もうご機嫌か。可愛いな、おまえ。
   ああ、それに…兄さんに目元がそっくりだ。

   心配するな。
   お母さんはすぐに帰ってくる。
   ほら、外を見て御覧。
   太陽が燦々と眩しいだろう?
   夏の日差しはあんなにも強い。

   …旭陽。
   だからおまえも、絶対に大丈夫だよ。
   (幼子を抱きしめて)絶対に…大丈夫だからな。

 

 

【間】

 

 

(濡れ髪の香夜子が庭へと出てくる)
香夜子:……あの…


結弦:俺はこっちを持って、おまえはそっち持つ。端と端を持って「ぴん」となるまで伸ばすんだ。
   いいか?いくぞ、せーのっ

(幼子と結弦が白いシーツを物干し竿に干そうとしている)

結弦:あはは、そうそう!上手いじゃないか。


香夜子:……。


結弦:(香夜子に気づいて)姉さんも手伝ってよ!
   こんなにいい天気だからシーツだけじゃなくて布団も干そう。


香夜子:ええ。


結弦:旭陽!ほら、今度はこの座布団を干すよ。
   え?ひとりで持ちたいって…わかった。気をつけてゆっくりな?


香夜子:すごいですね。


結弦:ああ、子供の探究心や好奇心には驚かされるよ。


香夜子:いえ、あなたが。


結弦:俺?


香夜子:人に懐くような子じゃないのに…


結弦:そう。


香夜子:兄弟だからなのかしら。血の繋がりってやっぱり凄いですね。


結弦:それはどうかな。さ、姉さん達の布団も全部干してしまおう。


香夜子:はい。


結弦:その前に髪を乾かしてきなよ。いくら夏だからって風邪ひくぞ。


香夜子:そうですね……(じっと結弦を見つめる)


結弦:…ん、なに?


香夜子:さっきは……ごめんなさい。止めてくれて、ありがとうございました。


結弦:俺に謝ったり、お礼を言う必要はないよ。


香夜子:でも……


結弦:ねぇそれより、あの子の顔見てよ。すごく楽しそう。
   (一生懸命座布団を運ぶ幼子に向かって)旭陽!上手上手!綺麗に干せてるぞ!


香夜子:……。


結弦:あの子は賢いね…成長が楽しみだ。


香夜子:…っ(涙ぐむが堪える)


結弦:姉さん?


香夜子:ごめんなさい……


結弦:謝る必要ないって言ったろ。


香夜子:違うの、泣くつもりなんてないのに…


結弦:涙には浄化作用があるんだって。


香夜子:っ……(一筋の涙がこぼれ落ちる)


結弦:心の赴くままに流しておやりよ。無理に止めなくていいじゃない。


香夜子:(ぽろぽろと涙があふれ、泣き出す)


結弦:(優しく笑って)存外、姉さんは子供みたいに泣くんだね。


香夜子:(M)彼が優しくそう言うので、私は幼子のように泣きじゃくり、

    心配して駆け寄ってきた我が子にもそれは伝染する。

    親子揃って泣いて、泣いて、ただ泣いて…
    いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったのだった。


香夜子:……ん。


結弦:あ、起きたね。おはよ。


香夜子:旭陽…


結弦:(旭陽を抱き抱えながら)ここにいるよ。姉さんもおいで。


香夜子:はい…。


香夜子:(M)呼ばれるままに彼の元へ行くと、眼前に幻想的な光が飛び込んでくる。


結弦:森のホタルだよ。


香夜子:こんな時期に?
※通常西日本の蛍の時期は六月頃


結弦:この辺りは比叡山の冷気が降りてくるからね。

   季節外れの蛍の乱舞が見られるんだ。


香夜子:…そうなんですね。


結弦:この子は蛍を初めて見るの?


香夜子:ええ。


結弦:そう…一緒に見れて良かった。


香夜子:結弦さん…


結弦:ん?


香夜子:お願いがあります。


結弦:なに?


香夜子:どうか私を……抱いてくださいませんか。


結弦:……。


香夜子:(M)もしも、陽炎もえる日を共に過ごさなければ

    蛍のささやかな輝きがあんなにも美しいと思うことはなかったのでしょうか。

    けれど、私が本当に美しいと思ったのは…幼子を抱く、あなたの横顔だったのです。
 

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-現在-
【祇園白川・高級青楼“伽羅館”別邸】

一晟:もっと、香夜子との時間を取るべきだった。


にいな:それでもいつか奥方は禁忌を犯していたさ。


一晟:妻は不貞を働くような人間ではないと…あの頃の私は高を括っていたんだよ。


にいな:旦那は優しすぎるんだ。他人にも自分自身にもね。
    極めつけにこの上なく情が深い…故に人を傷つける。
    旦那の深い愛が奥方もあの子も壊してしまったのかもしれないね。


一晟:ねぇ、月虹渚。


にいな:だからその名は次にやったと…(諦めたようにため息をついて)なんだい?


一晟:母を殺してしまえばよかったのかと思う時があるんだ。


にいな:思うだけなら自由だ。


一晟:そうだね。


にいな:大奥様も気の毒な方だ。それが旦那もわかっているから無下にも出来ないんだろ。


一晟:(ため息混じりに)それでもどうにか彼女を制する事ができていたら…。


にいな:後悔したところで現実は変わりはしない。さあ、続きを聞こうか。

 

 


-十数年前-
【壬生屋菓寮 壬生家本宅】

一晟:結弦?


結弦:兄さん。


一晟:こっちに来るなんて珍しいな。


結弦:聞いてないの?


一晟:何をだい?


結弦:壬生の大奥様に呼ばれたんだよ。


一晟:全くあの人は一体何を考えているんだ。
   すまないね…なにか酷い事はされなかった?


結弦:大丈夫。


一晟:あちらに戻るの?


結弦:ああ、特に予定もないし。


一晟:食事がまだなら一緒にどうだい?おまえの好きな天麩羅の美味い時期だ。


結弦:八坂神社近くの?


一晟:そう。どうかな?


結弦:いいね。行くよ。

 

 

【東山 天麩羅-八坂圓丸-】

一晟:いつものコースを頼んでおいた。他に食べたいものがあれば追加するといい。


結弦:ありがとう。ねえ、お酒頼んでいい?


一晟:いいね、私も頂こう。


結弦:日本酒?それとも白ワイン?俺はどちらでもいいよ。


一晟:白を頂こうか。頼んでくる。


結弦:俺が行くよ。


一晟:いいから。待っていて。


結弦:……。


(ワインがそそがれ、それぞれの手元に先附がおかれる)


一晟:さあ、頂こう。


結弦:乾杯。


(そう言ってお互い目の高さ程度までグラスを持ち上げる)


一晟:乾杯。(一口飲んで)…香夜子と旭陽は元気にしている?


結弦:元気だよ。そういえば最近、姉さんの手料理が上達してさ。


香夜子:料理に集中していると心が整う気がするんです。


結弦:って言って色々作ってくれる。圧力鍋や蒸篭も使い始めてなんだか本格的だよ。


一晟:そう。


結弦:旭陽は本に興味があるみたいでね。

   読めない字もたくさんあるから読んでくれとせがんでくるのが可愛いよ。
   物静かだけど本当に賢い子だね。


一晟:いつも面倒を見てくれてありがとう。おまえに任せて良かった。


結弦:他でもない兄さんの頼みだから当然だよ。

   でも、もう少し会いに来てやればいいのに。
   そんなに仕事が忙しいの?


一晟:すまない。なかなか比叡山の方まで行ける余裕がないんだよ。


結弦:…それ、本当に?


一晟:嘘をついてどうする。


結弦:それもそうだけど…。


一晟:忙しいのは事実だよ。ただ…私がそばに居ない方が香夜子たちの為なんだ。


結弦:それが兄さんの優しさ?


一晟:怖がりなだけさ。


結弦:兄さんは本当に大旦那様そっくりだね。


一晟:私と一緒の時くらい父さんと呼んでやればいいのに。


結弦:やめておく。


一晟:それは気の毒だ。あんなにおまえを可愛がっていたのに。


結弦:本気で?


一晟:当たり前だろう?


結弦:……。


一晟:…母のようだったとでも言うのか。


結弦:そうだね。大奥様も大旦那様も俺にとっては大差ないよ。


一晟:……。


結弦:でもね、俺は前にも言った通り感謝しかしていないから安心して?


一晟:ああ…。


結弦:(M)優しい優しい、憎らしい兄さん。
    俺の嘘に騙されたふりをして、俺の気持ちを尊重した気になっている。
    あなたの前で俺が死ぬほど惨めになるとは気づきもしない。
    その美しい笑顔が眩し過ぎて、俺の淀みは黒い影を増す。

    仄暗い闇の中で俺は声にならない叫びをあげ続ける。
    誰も助けてくれるはずなどないのに。

【比叡山近郊 壬生家別宅】
香夜子:(M)金木犀の甘い香りがこぼれる黄昏時。
    庭先で遊んでいた幼子が「蛍だよ」と私を呼ぶ。
    見ると弱々しく光を放つ秋蛍(しゅうけい)がいた。
    小さな手がそれを掴もうとすると突然透き通った声が響く。


結弦:触っちゃダメだ!


香夜子:っ…


結弦:旭陽!こっちにおいで。
   あれはね夏の蛍とは違うんだ。
   病蛍(やみほたる)と言って縁起が悪い。
   だから絶対に捕まえてはいけないよ。


香夜子:(M)目を丸くしながらも彼の言葉に一生懸命頷く愛らしい我が子を見つめながら、彼の顔を忍び見る。


結弦:姉さん、今日の夕餉は何?


香夜子:今日は蒸籠でこの間教えてもらった“おこわ”を作ってみました。


結弦:あ、俺の好きなやつ。


香夜子:ええ。あとは冷蔵庫の有り合わせで何品か。


結弦:十分だよ。夕餉の前に旭陽と風呂に入って来ていい?
   支度してくるね。


香夜子:もう湧いてます。


結弦:え…


香夜子:もうそろそろかなと思っていつでもお風呂に入れるように…


結弦:ふふふ。


香夜子:ん…どうしたですか?急に…


結弦:いや、ありがとう。
   じゃあ入ってくるね。行こう、旭陽。


(にこやかに見送る香夜子、だんだん顔が曇っていく)


香夜子:(M)この関係がまやかしだとわかっていても。

    この瞬間がただの幻だったとしても。

    ちぎれそうなその糸をどうしても紡ぎたい。
    あの夏、手繰り寄せた縁(えにし)を…。

 

(回想)
結弦:俺の事、買う?


香夜子:買うって?


結弦:俺に“抱いて欲しい”って言うのはそういう事だよ。


香夜子:っ…


結弦:姉さん。俺がどうやって生計を立てているか調べていないの?


香夜子:新進気鋭の画家だって一晟さんが…


結弦:物は言いようだな。


香夜子:……。


結弦:俺にはねパトロンがいるの。
   俺の絵と俺を買ってくれる人がね。


香夜子:それって…


結弦:普通だったら御免だなって思うおばさんだったり、歳の割に綺麗なお姉さん。
   紳士なフリしたおじさんや気まぐれで試すような男も居たね。


香夜子:そんな…


結弦:あ、汚いモノを見る目だ。


香夜子:違います。


結弦:じゃあ、哀れんでる目?


香夜子:私は……


結弦:くだらない。


香夜子:買います。


結弦:は?


香夜子:あなたを手に入れる手段がそれしかないのなら。


結弦:なにが目的?


香夜子:私は……あの家を傷つけたい。


結弦:っ…ふふ、あはは、あはははははは。


香夜子:……。


結弦:いいよ。買われてあげる。


香夜子:(M)私の戸惑いを溶かすように、彼は指先を重ねる。
    あなたとあの子さえいれば良かったはずなのに。
    私は壊さずにはいられない。
    憎んでも隠してもどうせ同じ痛みなら、この秋蛍に触れて奈落の底まで堕ちる方がほんの少し…
    ほんの少しだけマシな気がしたのです。
(回想終わり)

 

 


【間】

 

 

結弦:姉さん、着替えさせてたら旭陽眠たそうでさ。
   抱いてたら眠ってしまって。姉さん…?


香夜子:(寝息を立てうたた寝している)


結弦:姉さん、こんな所で寝ていたら風邪をひくよ。


香夜子:ん…もう少しだけ…


結弦:最近いつも眠たそうだ、夏の疲れでもでたのかな。
   じゃあこれ…(着ていた上着をかける)少しは暖かいだろ。


香夜子:結弦さんの匂いがする。


結弦:(笑って)そりゃ俺の上着だからね。


香夜子:ふふ、そうですね。…結弦さん?


結弦:ん?


香夜子:何か『おはなし』して下さい。


結弦:旭陽みたいな事を言うね。


香夜子:いつも羨ましかったんです。


結弦:そっか。じゃあ少し昔の話をしよう。


香夜子:昔の…?


結弦:そう、俺ね…地下の花街で育ったんだ。
   母親は高級青楼で伽羅女として夜な夜な舞や歌で客を楽しませ、夜伽で男たちを悦ばせる。
   彼女たちには階級があって、俺の母親は上から数えて五つ目の『紺青(こんじょう)の伽羅女』と呼ばれる地位にいた。
   その母を贔屓にしていたのが壬生の大旦那だった。

   兄に…一晟によく似た優しい男だったよ。


   彼が比叡山の近くに住まいを用意してくれたあの日、母に「この人がお父さんだよ」と紹介されてね。

   これで少しは穏やかな生活が出来ると思ってた…


香夜子:(また眠ってしまう)


結弦:ふふ、同じ顔で眠ってる。


香夜子:ん……ごめんなさい、お話の途中に…


結弦:大丈夫、大した話じゃないよ。
   旭陽の様子を見てくるから、もう少し眠りな。


香夜子:でも……


結弦:いいから、おやすみ。


香夜子:結弦さん…


結弦:ん?


香夜子:ずっと……私たちと一緒にいてくれませんか?


結弦:ふふ…俺は金がかかるよ。


香夜子:私…頑張りますから…


結弦:せいぜい破産しないようにね。


香夜子:(M)偽りの関係なのに、いとしい気持ちが湧き上がる。
    汚らわしいと蔑まれたとしても、あの時私は確実に救われたのです。

    それが独り善がりとも知らずに…。

    いつも笑っているように見えたあなた。
    なんでもないように振舞っていたあなた。

    もしも、山粧うあの家に私が戻れるのなら

    あなたの本音も隠し通していた涙さえも慰めることができるのでしょうか。

 

 


‐現在‐
【祇園白川・高級青楼“伽羅館”別邸】

にいな:旦那はどこまで知っていたんだね。


一晟:……全てを。


にいな:ほう?


一晟:……。


にいな:裏でもあると言った口振りだ。


一晟:…母がね。


にいな:大奥様が糸を引いていたと。


一晟:ああ。…あの人はね、恨んでいるんだよ。
   父を…結弦を、彼の母親も何もかも。
   私への執着も香夜子や旭陽への粗暴な態度も父への恨みからだ。


にいな:どうして、それをわかっていて守ってやらなかった。


一晟:守っているつもりだったんだよ。


結弦:兄さんは偽善者なんだ。


一晟:!?


(過去へと引き戻される一晟)


結弦:姉さんが俺の子を身篭った。


一晟:それは先刻聞いたよ。


結弦:それで言うことが「すまない」ってなんなんだよ。


一晟:おまえ達をそうさせたのは私だから。


結弦:勝手に背負うな。


一晟:母に香夜子を抱けと言われたんだろ。


結弦:……。


一晟:やはり、そうなんだね。


結弦:どうして…


一晟:心配しなくていい、結弦の母君には専門の病院に移ってもらった。

   最後までこちらで面倒を見る。


結弦:そんな事、する必要ない。


一晟:母にも家を出てもらう事にした。
   あの人は骨の髄まで病んでしまっているんだよ。
   もうこれ以上、目を瞑る事はできない。

   だから安心しておくれ。

   私はおまえも香夜子もお腹の子も大切なんだ。
   家族みんなで幸せに暮らせばいい。


結弦:俺は……じゃない。


一晟:え…?


結弦:俺は家族じゃない!


一晟:何を……言ってるんだ。


結弦:兄さん、一度も疑ったことはないの?
   俺はあの娼婦の子なんだぜ?


一晟:…母親をそんな風に言ってはいけない。


結弦:いつまでその偽善者の仮面をかぶっていられるかな。


一晟:結弦、お願いだから落ち着いてくれないか。


結弦:(かぶせて)大旦那様の子供じゃない。


一晟:(静かに息を飲む)


結弦:俺は大旦那様の子供じゃないんだよ。


一晟:じゃあ一体…誰が父親だと……


結弦:知らない。あの女の客は数え切れないからね。


一晟:父さんは知っていたのか。


結弦:もちろん。壬生の大旦那様はご存知だったよ。
   それでもあの女を甚く気に入って、自分だけの物にするために俺諸共飼い慣らそうとしたのさ。

   だけどあの女はよりによって壬生の使用人と恋仲になって消えた。

   俺が八つの時…あんたと会うほんの少し前にね。


一晟:……。


結弦:あの女が消えて大旦那様はひどく落胆していたよ。だから……


一晟:まさか……


結弦:母親そっくりに育っていく俺を代わりにし始めた。


一晟:ああ…父さん、なんてことを。


結弦:壬生の大奥様はこの事をすべてご存知だ。
   あの人も可哀想なお方だよね。


一晟:……。


結弦:でも、一番可哀想なのはあなただよ…兄さん。


一晟:なにが可哀想だと言うんだ。


結弦:こんな汚い俺を弟だと信じて同情していたのに、結局自分の妻を寝取られたんだから。


一晟:私は……


結弦:酷い顔。


一晟:やめてくれ。


結弦:もう一つ、いい事を教えてやるよ。


一晟:やめるんだ…


結弦:抱いてくれと言ってきたのは彼女だ。
   大奥様から命令されてはいたけど、先に迫ってきたのはあの女なんだよ。


一晟:やめろ!!


結弦:……その顔が観たかった。


一晟:頼むから……消えてくれ。


結弦:目的は果たした。もう用は無いさ。
   (立ち去ろうとしたが振り返って)ああ…そうだ。

   俺が大奥様の命令を聞いたのは母親が理由じゃない。
   だからあの女に情けをかける必要はないよ。


一晟:……。


結弦:さよなら、兄さん。
(回想終わり)

 

 

 


にいな:結弦の母親は悪性の腫瘍が全身に転移していたと聞いたが。


一晟:ああ。治療費に困って使用人だった男が母を訪ねたそうでね。
   援助する代わりに結弦に命令していたんだ。
   あの子がパトロンと称した人間と関係を持っていたのも、母の差し金だよ。


にいな:罪深いお人だ。


一晟:結局…たいした治療も受けていなかったせいか、間もなく結弦の母親も亡くなった。
   結弦の消息も掴めず、毒気を抜かれたように母も急逝して…

   慌ただしく月日が過ぎるうちにあの娘が産まれたんだ。


にいな:そうだったな。


一晟:香夜子はどんどん憔悴しきって。私は見ていることしかできなかった。


にいな:……。


一晟:すべて父が……いや、私が蒔いた種だ。
   けれど香夜子にもあの娘にも触れる事ができない。


にいな:汚らわしいか。


一晟:怖いんだよ。


にいな:迎えに来たのかと思ったが、思い違いかね?


一晟:そのつもりで来たさ。


にいな:ふふ、ははははは。


一晟:なにが可笑しい。


にいな:旦那、あの娘は返さぬよ。


一晟:っ……。


にいな:安堵の表情(かお)。素直な男は好ましい。


一晟:それは、彼女を娼婦にするということか。


にいな:いつの時代の話をしている。
   あの娘が望めばそうするが、旦那を出向かえた少女達も含め皆が皆、私のようになるわけではないよ。
   誰もが望んで伽羅女となるんだ。


一晟:娼婦呼ばわりは心外だということだね。


にいな:ただ…あの娘が伽羅女となる選択肢を選んだ時は覚悟を決めてもらう。


一晟:……わかった。


にいな:(酒を注ぎ)もう少し呑むかね?


一晟:いや、今日はこれで失礼する。


にいな:(部屋に備え付けてある鈴を鳴らして)お帰りだ。送って差しあげな。
    ではね、旦那。壬生家のご多幸をお祈りしているよ。


一晟:…ああ、ありがとう。


(一晟が去る後ろ姿を見て)


にいな:からまった紐はどうあがいても解けぬか…。
(ぐっと酒をあおり、ぼそぼそと歌いはじめる)

にいな:揺籃(ゆりかご)のゆめに
    黄色い月がかかるよ
    ねんねこ
    ねんねこ
    ねんねこよ


(子守唄の声が十数年前、祇園白川で歌う香夜子へと移り変わる。どうやら彼女は泣いているようだ)

香夜子:揺籃(ゆりかご)のゆめに
    黄色い月がかかるよ
    ねんねこ
    ねんねこ
    ねんねこよ


にいな:壬生の奥様…?


香夜子:っ……。


にいな:ああ、やっぱりそやわ。こんな所でなにしたはるんどす。


香夜子:にいなさん…


にいな:そんな薄着で奥様も稚児(ややこ)も風邪ひきますえ。


香夜子:風邪をこじらせていっそ二人で死ねたらいいのに。


にいな:笑えん冗談どすな。


香夜子:すみません。


にいな:(着ていた羽織を香夜子の肩にかける)これで少しは暖もとれますやろ。


香夜子:……。


にいな:大丈夫どすか?


香夜子:ええ、ありがとうございます。


にいな:そう。なら…堅苦しいのはここまで。
    好きに振る舞わさせてもらうよ。


香夜子:え……


にいな:今はただの人としてここにいるってことだ。


香夜子:あ…(じっと見つめて)


にいな:なにを呆けた顔をしている。


香夜子:いえ、私…今の方が好きだなと思って。


にいな:やっと笑ったね。


香夜子:……。


にいな:理由を話したくないならそれでも構わない。
    ただ…知らぬ仲でもない。吐き出してしまえることならここで吐くのも悪くないよ。


香夜子:……この娘(こ)、夫の子ではないんです。


にいな:まさか…


香夜子:結弦さんの子です。


にいな:……。


香夜子:どこまで私たちのことをご存知ですか?


にいな:さあ…人と人とは万華鏡だ。

    目の前にあると思ってもすり抜けていくものの真実などわかりはしないさ。


香夜子:やっぱり本心の見えないお方。


にいな:前にも言っただろう。それが伽羅女だ。


香夜子:でもあなたを前にするとなんでも話してしまいそうになる。


にいな:手練手管の賜物だね。


香夜子:では…それに身を任せます。少し長くなりますが聞いて下さいますか?


にいな:ああ、いくらでも。

 

 


【比叡山近郊 壬生家別宅】
香夜子:(M) もしも、あの乙子月(おとこづき)に強い心を持てたなら

    今も二人で寄り添いながら、この子を抱きしめ眠れたのでしょうか?


結弦:姉さん、終わりの時間だ。


香夜子:(M)そう冷たく言い放つあなたに縋り付く勇気が私にはありませんでした。
    はらはらと零れる涙で目の前が霞み、

    あなたがどんな表情(かお)をしているのかさえわからずに、

    「堕ろしません」と言うのが精一杯だったのです。

    壬生の家に嫁いだ事を後悔していた。
    お義母様への呪いの言葉を何度も唱えた。
    いつも優しい一晟さんが憎くて愛しくて。
    泣き叫ぶ我が子の口を何度も塞いで怒鳴りつけた。

    私が本当に傷つけたかったのは自分自身だったのでしょう。


結弦:あなたは俺を買っただけ。

   その子は堕ろすべきだ。


香夜子:嫌です。


結弦:俺と兄に血の繋がりはないと言っただろ。

   その子に未来はないよ。


香夜子:嫌です!


結弦:どうしてそんなにかたくななんだ。


香夜子:あなたが…好きだから。


結弦:それは幻想だよ。


香夜子:私はあなたに救われたんです。
    こんな気持ち初めてで、あなたとならどんな辛いことでも乗り越えていけると信じています。


結弦:陳腐な台詞を並べている自覚はあるかい?


香夜子:本当に……好きなんです。


結弦:俺はあなたを愛していない。


香夜子:私は……


結弦:俺が愛しているのは兄さんだ。


香夜子:兄さん…?


結弦:子供の頃からあの人が好きだった。
   でも手に入らないのがわかっているから壊した。


香夜子:うそ……


結弦:あなたは俺にとって、兄さんを壊す道具に過ぎない。


香夜子:いや……嫌です。やめて……だってあんなに優しく……


結弦:俺は昔から筆も絵の具も大切に使うんだよ。
   道具は丁寧に扱ってやる方がよく働いてくれるから。


香夜子:……私が道具?私はいつまでも誰かの操り人形だというの。


結弦:……。


香夜子:許さない……許せない。
    あなたも、お義母様も、一晟さんもなにもかも……っ


結弦:ああ……一生許さないで。だから俺もあなたに謝るつもりは無い。

 

 

【間】

 

 


香夜子:一生許さない。だから私はこの子を産みました。


にいな:そうか。


香夜子:どこまでも独り善がりな女だとお思いでしょう。


にいな:誰しも独り善がりさ。


香夜子:けれど、もし、もしも本当に、少しでも私の心が強ければ……

    この未来は避けることができたのかもしれないと、悔やまずにはいられないのです。


にいな:悔やんだとてなにも変わらぬよ。


香夜子:もしも、あの花曇りにあの人と出逢わなければ。
    もしも、陽炎もえる日を共に過ごさなければ。
    もしも、山粧うあの家に私が戻れるのなら。
    もしも、あの乙子月(おとこづき)に強い心を持てたなら。


にいな:もしも、もしもと出来なかったことを指折り数えて、

    弱さを正当化し、世の中を憎み、家族を疎み、自分を闇に押し込むか。


香夜子:私はもう取り返しがつきません。
    正常な思考を持ち合わせていないのです。
    このままではこの子を殺してしまう。


にいな:……。


香夜子:お願いがあります。


にいな:なんだね。


香夜子:なにも知らないふりをしてこの子を預かってはもらえませんか?
    必ず、必ず迎えに来ますから。


にいな:必ず迎えに来る……そう言って迎えに来た親は居ない。
    それは私が一番よく知っている。
    だが……いいだろう。その願い承った。

 

 

結弦:(M) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
   沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。


香夜子:(M)おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。


にいな:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。


一晟:(M)「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。

 

 


※香夜子役が読む
玉兎:ようこそ、おこしやす。
   今宵より壬生の旦那様付きの伽羅女と相成りました。
   玉兎と申します。どうぞ“たま”と呼んどくれやす。


一晟:(M)この街は私を許してはくれないようだ。

 

 

 


【エピローグ】
にいな:(M)祇園白川の地下にある高級青楼伽羅館の別邸には「画工の間」と呼ばれる部屋がある。
    位持ちになった伽羅女はそこで肖像画を描いてもらうのが習わしだ。


(伽羅館別邸、画工の間の入口に立つ玉兎。呼び鈴を鳴らす)


※結弦役が読む
画工:お入り。


玉兎:失礼致します。


画工:やあ、よく来たね。


玉兎:金色(こんじき)の伽羅女の位を頂きました玉兎と申します。


画工:……感慨深いな。


玉兎:え?


画工:いや、なんでもないよ。さあ、そこへかけて。


玉兎:はい。


画工:緊張しているの?


玉兎:絵を描いて頂くのは初めてで。


画工:そう、じゃあ少し『おはなし』をしよう。


玉兎:……。


画工:どうかした?


玉兎:あのその絵…


画工:ああ、これ?私が一番初めに描いたものなんだ。

   昔ここに居た伽羅女だよ。


玉兎:綺麗な方ですね。


画工:…寂しい最期を迎えたようだけどね。


玉兎:そうなんですか。


画工:気になるかい?


玉兎:はい。


画工:なら、彼女の『おはなし』をしようか。きっと弔いになる。


にいな:(M)そして彼は揺籃歌(ようらんか)のごとく語り始めるのだった。

 

 

 

【完】

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