祇園×エンヴィ
#迷宮症候群(ラビリンスシンドローム)-Gion-
時間40~50分(演者様の間のとり方によって時間が変動します)
比率(♂:♀)1:1
※園崎役のセリフは京ことば(あえてこう書かせていただきます)ですが、関西以外の演者様にも自由に演じて頂ければと思います。
【登場人物】
山本香枝(やまもと かえ)/地方出身。三十路・無職・恋人なし。元ドレスデザイナー。婚約者に預貯金をすべて持って逃げられ、ひどく傷ついている。生きていくために園崎の経営する祇園のホステスの面接を受けることにした。
園崎彦一(そのざき ひこいち)/京都で有数の会社や店舗運営をする三代目御曹司。他人からは地位も名誉も全てを持っていると思われているが実はコンプレックスの塊でストイックな努力家。
※登場人物の年齢について
あえて年齢は明記しませんが、アラサー(25~34歳)あたりで演じやすいように演じてください。
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香枝:(M)究極の2択を迫られた時、私の脳裏に浮かんだのは“女の幸せ”。
ぎゅっと握った手の中には“わずかな自尊心”。
瞳に映るのは“甘い彼の笑顔”。
そして鼓動は跳ね上がり、胸は狂おしいほど締め付けられ、私の理性を吹き飛ばそうとしていた。
三十路まっただなか。
貯金残高 三百六十五円。
無職。
恋人なし。
そんな私、山本香枝(やまもと かえ)が体感した数か月は濃密で…濃厚で…。
わけも分からず、どこに行けばいいかもわからず、とにかく迷走していた。
後戻りはしたくなかった。
止まるのも怖かった。
ただ、前へ…。
とにかく前へ進むしかなかった。
それがどんなに難解な『迷路』であっても…。
(タイトルコール)
彦一:祇園×エンヴィ
香枝:迷宮症候群(ラビリンスシンドローム)
【SONOZAKI bldg.社長室】
香枝:(M)前へ進むと決めた…はずなのに、この状況は一体…。
香枝:あの…社長…?
彦一:ん?なに?
香枝:これって面接ですよね?
彦一:せやで。
香枝:なら…その、どうして隣に座ってるんですか?
彦一:あかん?
香枝:それは…色々と、その…
彦一:近くにいる方が君の表情(かお)がよう見えるやん。
香枝:はあ?!
彦一:そんな大きな声出さんでもええのに。
香枝:ふ、普通の反応だと思いますけど…
彦一:…あれ、汗かいてる。
香枝:え…
彦一:暑いんなら脱ぐか?
香枝:は?!脱ぎませんよ!もう離れて下さい、お願いしますから!
彦一:あはは…そんなに騒がんといてよ。
脱がせようってわけやないんやから。
香枝:っ……
彦一:(顔を覗き込んで)緊張してるん?
香枝:し、してます!してますよ!顔近づけないで、なんなの?!
彦一:あはははは。めっちゃおもろい。
香枝:…全然おもしろくないです。
彦一:(微笑んで)ごめん。
香枝:っ…。
彦一:怒らせてしもた?
香枝:い、いえ…。
彦一:せやったらよかった。
香枝:……。
彦一:(優しく微笑みながら香枝を見つめる)…。
香枝:……っ!あの!
彦一:ん?
香枝:あ、あんまり見ないでください。
彦一:(微笑)ああ、ごめん。
めっちゃ君が可愛い反応するから、つい…。
香枝:っ…。
彦一:履歴書、見せてもろたよ。
山本さんめっちゃ優秀なんやなぁ。
香枝:そんなこと…
彦一:地元の高校の服飾専門科在籍中に、ドレスメーカーのコンテストで優秀賞獲得。
ロンドン、パリに留学した後に『志づ乃ブライダル』のドレスデザイナーとして十年以上勤務。
香枝:はい…。
彦一:志づ乃さんなら、よう知っとるよ。
香枝:え、そうなんですか?
彦一:彼女は祇園の宮川町の有名な芸妓さんでな。
引退した後に色んな事業を立ち上げはってん。
ほんますごい人やわ。
香枝:…。
彦一:死んだ親父が志づ乃さんに惚れこんでてな。
僕も何度か一緒に呑ませてもろたわ。
香枝:そうなんですか。
彦一:志づ乃さんは祇園の街で名を馳せただけあって仕事にシビアな人や。
そんな彼女が認めたヒトが…なんでホステスのバイトなんか?
香枝:それ…言わないといけませんか?
彦一:いいや?言いたくないならかまへん。
香枝:…。
彦一:でも…(香枝の手を握る)
香枝:っ…
彦一:僕は君に興味がある。
香枝:えっ…。
彦一:せやから話せるようになったら、話して?
香枝:あ…あの。
彦一:ん?
香枝:この手なんですか…?
彦一:(意地悪そうに笑って)さあ?なんやと思う?
香枝:あの、初対面の方にこんな事を言うのはアレなんですが…
彦一:ん?
香枝:史上最高級に“ちゃらい”…です。
彦一:くっ、あははははははは。
【間】
香枝:(携帯を取り出し電話をかける)あ、もしもしお母さん?
…うん、働くところ見つかった…え、どこって…まあ、いいじゃないどこでも。
今はすぐにでもお金がいるんだし…うん…いや、志づ乃さんの所にはさすがにもどれないよ。
とりあえず報告したかっただけだから…うん、ありがとう。
もう少しこっちで頑張ってみる…うん。じゃあね…(溜息)
彦一:(M)僕は君に“何かを”感じるんやけど…君はどう思う?
香枝:(もらった名刺を取り出して)園崎彦一(そのざき ひこいち)か…
老舗料亭“園崎”を初めとして、数多くの事業を展開した和食業界のカリスマ…園崎一進(いっしん)の孫。
びっくりするくらい強引に他人の懐に入り込むくせに…掴み所のない人…。
まぁ…三代目のぼんぼんのきまぐれか。
彦一:(M)君って不思議な人やなあ。
その瞳(め)見てるだけで、自分のすべてをさらけ出しそうになるわ。
香枝:どっちが不思議なんだか。
彦一:(M)うちのお店、祇園のラウンジっていうてもそんな高級な店やないねん。
昔からの馴染みのお客さんが通ってくれはるアットホームな店なんよ。
香枝:…。
彦一:(M)困ったことがあったらいつでも連絡してきて?
僕は事務所におるから、毎日でも会いに来てな。
香枝:気まぐれで近づいて、中途半端な温もりなんか与えないでよ…。
香枝:(M)なんとなく、本当に…なんとなくイラついて。
祇園のラウンジで働くことになった私は、呑めないお酒を何杯も飲み干し、アルコールに身を委ねた…。
【SONOZAKI bldg.社長室】
(デスクで書類に目を通していた彦一の携帯が鳴る。)
彦一:(M)はい。…ええ、園崎は僕ですが…え?!…わかりました。すぐにそちらへ向かいます。
(どこかに電話をかける)ママ、仕事中すみません、僕です。
今日から入った彼女なんですけど…ああ、やっぱり…。
彼女の荷物出しておいてください、すぐ受け取りにいきますから。
え?いや、怒ってへんよ……(苦笑して)わかったから。見透かすんやめてよ。
ほんまにママにはかなわんなあ。
からかわんといてください、これでも真剣なんですから。
とにかく、すぐ病院行かなあかんので…はい、ほな。
【京都市立病院救急センター】
(ばたばたと走り込む足音、息を切らして彦一が病室に入ってくる。)
彦一:はぁ…はぁ…山本さん…
香枝:ん…
彦一:山本さん…?
香枝:あ…れ?しゃ…ちょ…?
彦一:あぁ…よかった、ビックリさせんといてよ。
香枝:え…と。ここは?
彦一:病院やで。
香枝:びょう…いん?
彦一:店でのこと、覚えてる?
君、頑張って飲み過ぎて――
香枝:ママに帰りなさいって言われて…
彦一:その帰り道に倒れて救急車で運ばれてん。
香枝:え?うそっ(起き上がろうとするけれど頭が痛くてままならない)…っ。
彦一:こら、急に起きあがったらあかんよ。
香枝:…どうして社長が?
彦一:病院から連絡があってん。
香枝:え?
彦一:店のために健気に頑張ってくれたんやな。
ママに“帰りなさい”って言われてから貴重品も何もかも受け取らずに店出て、その後、倒れてここに運ばれてん。
君が持ってたんが僕の名刺一枚だけやったから、僕に連絡が来たんよ。
香枝:あ…すみませ…
彦一:(被せる)謝らんでええ。
香枝:でも…
彦一:“香枝ちゃん頑張って飲んでくれたんやね、おーきに”
香枝:え…?
彦一:ママからの伝言。せやから、謝らんでええよ。
香枝:…でも。
彦一:(そっと頭をなでて)よしよし…大丈夫やから。
香枝:っ…。
彦一:落ち着いたら今日はもう帰ろう?
香枝:やめて下さい…。
彦一:どうしたの?
香枝:頭…撫でないで…。
彦一:あかーん。
そのお願いは聞いてあげられません。
香枝:どうしてですか…!
彦一:僕は泣いてる子、放っておけへんの。
香枝:泣いてなんかいませんよ…。
彦一:泣いとる。
香枝:っ…。
彦一:痛い、痛ーいって…泣いとるん聴こえる。
香枝:やめて下さい…。
彦一:やめへん。
香枝:…こんな風に優しく頭を撫でてもらう理由なんて、本当にないんです。
彦一:なんで?
香枝:あの、ほんと…そうやってじっと見つめるのやめてください。
彦一:話してる時は相手の目ぇ見るやろ普通。
香枝:昔の傷が疼くんです。
彦一:…昔の傷。
古傷…?んー違うか。
山本さん、過去になにかあったんか?大丈夫―――
香枝:(被せるように)この手…はやくどけてください。この温もりは犯罪です。
彦一:(吹き出す)は、犯罪?君ってほんまにおもろいなあ。
香枝:おもしろくない…私…駄目なんです…。あったかいのとか本当に…駄目なんですってば。
お酒飲みすぎたのも、お店のために頑張ったからとかじゃないんです。
ただ…呑まれたかった。
嫌な事を全部忘れたくて、ただ身勝手に…。だから…
彦一:(微笑む)ほんまに…
香枝:…?
彦一:難儀な子やなあ。今日、君に会(お)うた時から思ってたけど…
香枝:え?
彦一:なんでそんなに肩肘はってるん?
なんか君って完璧に振舞おうとして、自分の足元がんじがらめにしとる気がする。
香枝:…。
彦一:まちごうてるなら謝るよ。
香枝:完璧になりたいの駄目ですか?
彦一:…。
香枝:もういい歳なんだし、ちゃんとしたいって思うのはいけないことですか?
彦一:…いいや?
香枝:今日は本当にすみません。明日からはちゃんとしますから。
彦一:うん。
香枝:もうご迷惑おかけしませんから。
彦一:それはあかん。
香枝:え?
彦一:君にいっぱい迷惑かけて欲しい。
香枝:…は?何言ってるんですか?
彦一:言葉通りやけど?
香枝:な…
彦一:さ、そろそろ帰ろか、送ってくわ。
香枝:……。
彦一:ん?動ける?お姫様抱っこしたげよか?
香枝:だ、大丈夫です!
【東洞院高倉 アパート前】
彦一:ほら、着いたよ。
香枝:え…
彦一:ひとりで大丈夫?
香枝:え…ああ、すみません、なんかぼーっとしちゃって。
彦一:どしたん?独りはさみしいんか?(頬に触れる)
香枝:っ…
彦一:ん……香枝ちゃん?
香枝:香枝ちゃんって…
彦一:ほっぺ、熱いなあ。
香枝:え…。
彦一:熱でもあるんかな?
香枝:そんなんこと――――
彦一:それとも…僕のせいやったりする?
香枝:そ…その過剰なスキンシップなんとかなりませんか?!
人のほっぺに気安くさわらないでください。
彦一:あはは、ごめん。
香枝:もぉ…
彦一:僕がいつでも連絡してって言うたん、ほんまやしな?
事務所にも毎日来てくれていいから。
香枝:何…言ってるんですか?
彦一:僕さ?どうしても仕事でずっとあそこにおらなあかんから。
香枝:社長室のデスク、書類いっぱいでしたもんね。
彦一:じいちゃんの代から手広くやりすぎてるツケが回っててな…。
まあ、なんとかせなあかんねんけど、どれもまだ赤出してへんから頑張れるところまでやろかなって。
香枝:…お仕事、お好きなんですね。
彦一:うん。
香枝:無理しすぎて身体壊さないでくださいね。…病院に運ばれた私が言えた話じゃないですけど。
彦一:心配してくれてるん?
香枝:え…あ、それは…まあ。
彦一:せやったら毎日事務所に来て、僕に顔見せてくれる?
どんな理由でもいい、会いたいから…な?
香枝:意味がわかりません…
彦一:わからんでもええよ。
香枝:(思わず微笑む)もぉ…自由すぎでしょ。
彦一:…。
香枝:社長?
彦一:なあ…抱きしめていい?
香枝:はぁ!?ダメです!何言ってるの突然!?
彦一:あかん…。(そう言って香枝を抱きしめる)
香枝:それどういうことですかですか…ちょっ…待って、や…だ。
彦一:ほんまに?
香枝:…っ。
彦一:…わかった。ごめんねな。(そっと耳元に)でも次は容赦せーへんからね?
香枝:なっ…
彦一:(微笑)おやすみ。
香枝:おやすみなさい…。
彦一:あったかくして寝ぇや?
香枝:はい…。
香枝:(M)もう絶対にこんな恥ずかしい真似はしない…男には頼らない。
彼の車を見送りながら、そう思った…。
ひとりで…一人で…独りで…生き抜くって…そう思ったのに…
本当にそう…誓ったのに…。
【間】
(香枝の携帯のコール音が鳴り響く)
香枝:はい…もしもし。…ああ、芙み乃(ふみの)ちゃん、久しぶり。
え?ああ、ごめんね、ちょっと昨日遅くまで仕事で…今まで寝てたの。
あ、ううん、大丈夫だよ。志づ乃さんお元気?…そう、よかった。
それで?今日はどうしたの…?
…ああ、うん、覚えてるよ?同期だし何度か飲みにもいってたし。
私が辞める少し前だよね彼女が辞めたのって。
それからは全然連絡とってないけど、どうかしたの?
おめでたで、結婚…へぇ…いいなぁ。あはは、うらやましいね。
…え?ごめん、もう一回言って…よく聞こえなかっ…た。
……そう、なんだね。教えてくれてありがとう…大丈夫。大丈夫だよ、ほんと…。
じゃあもう、切るね…。
(溜息)そう…そういうこと…
彦一:(M)僕がいつでも連絡してって言うたん、ほんまやしな?
事務所にも毎日来てくれていいから。
香枝:こんな時に思い出すなんて…
病院に運ばれたあの日から仕事で会う以外、ずっと何も連絡できなかったのに…
彦一:(M)どんな理由でもいい、会いたいから…な?
香枝:ひとりで…一人で…独りで…生き抜くって…(涙ぐむ)もう…頑張れないよ…
【SONOZAKI bldg.社長室】
(ノック音がして、彦一の秘書が入ってくる)
彦一:おつかれさまです、どうしたんですか林田さん。
…え?ああ、待って、その電話こっちに繋いでください。僕が話します。
もしもし、香枝ちゃん?どうしたん急に。
あかーん。電話だけでそんなん許さへんよ僕。
明日空いてる?
え?あかんのか…
ほな急やけど今日は?…大丈夫?
何時がいい?…わかった、ほな1時間後…ん、待ってる。
(待機していた秘書に向かって)林田さん、申し訳ないんやけど午後の予約調整してもらってもええですか。
…はい。すみません、わがままばっかり言うて 。
よろしくお願いします。
【間】
(一時間後、香枝が社長室へ訪れる。)
彦一:どうぞ。
香枝:…失礼…します。(暗く憔悴した顔)
彦一:香枝ちゃん…。(努めて明るく)お疲れさま。
香枝:お疲れ様です…。
彦一:久しぶり、元気やった?
香枝:……。
彦一:コーヒー淹れよか。ブラックでよかったやんな?
香枝:…はい。
彦一:(コーヒーカップを渡しながら)…どうぞ。熱いから気をつけて?
香枝:ありがとうございます。
彦一:君からの連絡、ずっと待ってた。
香枝:はい…。
彦一:なんでそんな顔してるん?
香枝:え…。
彦一:今にも崩れそうで…ほっとけへん。(そっと肩に触れる)
香枝:…ごめんなさい…。
彦一:なんで?
それに、いつもやったらここは跳ね除ける所やろ?
香枝:そう…かもしれませんね。
彦一:もう…そんな顔せんといてよ…
香枝:え?
彦一:自制が効かんくなる。
香枝:…次は容赦しないって…言ってましたもんね。
彦一:っ…
香枝:…。
彦一:ええの?抱きしめても…?
香枝:…。
彦一:その目、あざといってわかってる?(香枝を抱きしめる)
香枝:っ…はい。
彦一:悪いやっちゃな…。
香枝:社長こそ…。
彦一:店で…嫌な事あった?
香枝:え?
彦一:急に辞めたいって言うから…なんかあったんかなって。
香枝ちゃんがうちに来て半年近くか…?
きっと“ひとりで頑張らなあかん”って思って連絡してこんのかと思ってたけど。
どうしても気になってママには色々聞いててん。
香枝:そうなんですね…。ママもお姉さんたちも良くしてくれてます。
彦一:うん…『よぅ出来たええ子や』ってあの人も褒めてた。
香枝:そう…ですか。
彦一:…お客さんとなんかあった?
香枝:ううん。
彦一:…香枝ちゃん?
香枝:はい。
彦一:話したくないなら、無理強いはしたくないんやけど…教えてくれへん?何があったんか…
香枝:…。
彦一:…。
香枝:実家に…帰りたいんです。
彦一:…そう…。疲れてしもた?
香枝:…私…ここに入る少し前…
彦一:うん…
香枝:婚約者に逃げられたんです。
彦一:え?
香枝:しかも、預貯金全部持っていかれて…
彦一:な…
香枝:で、その逃げた婚約者が……っ
彦一:逃げた…婚約者が…?
香枝:…(涙ぐんで、だんだん溢れてくる)わ、私の元同僚と…入籍したって…聞いて…
彦一:そうなんか…
香枝:しかも…彼女、妊娠8か月だって…
彦一:…。
香枝:…彼が…っ、何もかも持って消えた理由がわかって、ああそうなのか、ああそうですかって…思ったのに。
彦一:…うん。
香枝:全然…消化できなくって…整理できなくて…。
彦一:もう…ええから。なんも考えんとき。
香枝:でも…でも私…
彦一:(抱きしめる腕を強める)大丈夫やから…。
香枝:っ…(静かに泣く)
彦一:…。
香枝:ごめ…んなさい…
彦一:謝る事やないよ。
香枝:…っ。
彦一:僕は好きでこうしねんで?
それとも…
香枝:…?
彦一:こうされるん…嫌?
香枝:…嫌じゃないです
彦一:ほんまに?
香枝:はい…。
彦一:…髪、めっちゃいい匂いする。
(おでこにキス)
香枝:っ…
彦一:セクハラですって殴るなら今のうちやで?
香枝:…。
彦一:抵抗せえへんの?
香枝:…ドキドキする。
彦一:ドキドキしてくれてるんや?
香枝:社長って強引ですよね。
彦一:よく言われる。
(瞼にキス)
香枝:っ…アイシャドウついちゃいますよ…?
彦一:へーき。
香枝:あの…なんかその、いけないことをしているような気持ちになるっていうか…
(耳元にキス)
香枝:ひゃっ…
彦一:(微笑)耳…くすぐったかった?
香枝:べ、別に…
(頬にキス)
彦一:ん…今日もほっぺ熱いな。
香枝:…もぉ…(溜息)やだ…
彦一:…なあ?今…何考えてる?
香枝:…。
彦一:こっち向いて?
香枝:…。
彦一:裏切られた恋人の顔でもちらつく?
香枝:…。
彦一:ごめん。よしよし(頭を撫でながら苦笑して)…急ぎすぎたな。
香枝:ちらついてなんか…ないです。
彦一:…。
香枝:グ、グロスついたらいけないなと思って…。
彦一:…。
香枝:…。
彦一:(吹き出して)あはは、グロスなんか気にせんでええやん。
…なあ、香枝ちゃん?
香枝:はい…。
彦一:…ほんまに嫌なら言ってな?
香枝(M)もう傷つきたくないのに…
握られた手の温もりに甘えたくなって、私は彼の唇を受け入れた。
初めての彼とのキスはブラックコーヒーの味がした。
香枝:…怖い。
彦一:僕も…(携帯電話が鳴る)ん…ごめん。
香枝:はい…。
彦一:はい。…ええ…わかりました。伺います。
香枝:…。
彦一:ごめん…
香枝:お仕事ですよね。
彦一:うん。店の件やけど、辞めるんはわかった。
事務的な事は林田さんに聞いて?
香枝:はい。
彦一:で、僕らは一回飲みに行こう?いつが空いてる?
香枝:…お店入ってないのは火曜です。
彦一:次の火曜日の夜は?
香枝:はい。
彦一:じゃあ7時に迎えに行くわ。いい?
香枝:はい、わかりました。
彦一:じゃあ…(リップ音・おでこにキス)あはは、今日はおでこも熱いな。
香枝:…っ。失礼…します。
【間】
(帰り道赤面しながら溜息をつく香枝)
香枝:なにを…やってるの私…。
(携帯のコール音が鳴る。ディスプレイを見て緊張が走る)
香枝:…志づ乃さん?…はい。ご無沙汰しております。
…ええ、芙み乃ちゃんから。
訴える…?いいえ、彼やその家族と争うつもりはありません。
というかもう関わりたくないんです。
はい…どうして志づ乃さんが謝るんですか、やめてください。
確かに彼を紹介してくださったのは志づ乃さんですけど、結婚を決めたのも、
その条件に仕事を辞めろと言われてキャリアを捨てたのも、全部私が決めたことなので。
預貯金全額持っていかれたの痛かったですけどね。
…いい勉強、させてもらったってことで、あはは。
え?…もっと落ち込んでるかと思ってました?
あー…さっきまでは死ぬかと思うくらい落ちてたんですけどね。
何ていうか…『渡りに船』みたいな感じで…何言ってるかわからないですよね。
あはは、すみません。…え?今ですか?…実は祇園のラウンジでバイトを…
はい…はい…わかってます、向いてないのは。…え?はい、昼は大抵いつも空いてます。
明後日?はい大丈夫です。お昼に事務所でいいですか?
…わかりました伺います。はい、失礼します。
【数日後、烏丸室町ワインバー QUATTRO CAT(クワトロキャット)】
彦一:さて、何飲もう?
香枝:お任せします、ワイン好きですって言って連れて来て頂いたのにお恥ずかしいんですけど、全然詳しくなくて。
彦一:んー、実は僕もあんまりわからんねんなあ…
香枝:ワイン飲まないんですか?
彦一:あんまり飲まへん。ビールばっかりかな。
香枝:へぇ…お腹全然でてないのに…
彦一:(微笑んで)そこ?腹筋割れてるよ?触ってみる?
香枝:そうやって、いつも女の子に触らせてるんですか?
彦一:触らせてないよ。
香枝:どうだか。
彦一:君でもそんな風にヤキモチ焼くんやな。
香枝:焼いてません。
彦一:えー、焼いてくれてもいいやん。
香枝:嫌です。
彦一:(笑って)そうか。とりあえずビールでいい?
香枝:ワインバーなのに?
彦一:ええやん、ひとまず一杯目は生みたいなアレで。
香枝:…意外とおっさんなんですね。
彦一:(微笑みながら)うるさいよ?(店員に)生ビール2つ。その後、このワインをボトルで。
香枝:…。
彦一:横顔を見つめるんはクセ?
香枝:見つめてません、自意識過剰です。
彦一:そう?
香枝:そうです。
彦一:…やっと飲みに来れたね。
香枝:はい…。
彦一:なんか頼もか、好き嫌いは?
香枝:無いので、お任せします。
彦一:お任せかぁ…色々つまめた方がええやろし…前菜は盛り合わせにしよか。
パスタはチーズソースとかの方が女の子は好き?
香枝:あの、社長?
彦一:んー?
香枝:これ、どこまでが業務ですか?
彦一:…は?
香枝:あの…これってどこまでが仕事なんですか?
彦一:仕事…?いや、僕は会社背負ってここに来てへんよ?
そもそも、これ業務やったらただのセクハラやん?
香枝:確かに…(生ビールが手元にくる)あ、すみません。
彦一:(生ビールを受け取って)ありがとう。注文いいですか?本日のアンティパスト・ミスト。
あと自家製サルシッチャのグリルとゴルゴンゾーラチーズのペンネを。
とりあえずこれくらいにしとくよ?足りひんかったら言って?
香枝:ありがとうございます。
彦一:僕、今日はやっとゆっくりふたりで話せると思ったんやけどな。
香枝ちゃんは“お仕事のつもり”できたん?
香枝:…その。
彦一:一緒に飲むの嫌やった?
香枝:そんなことないです。
彦一:(微笑)ほな、乾杯。
香枝:乾杯…。
彦一:はぁ…うま。こんなお洒落な店来てても飲むならやっぱり生やな。
香枝:そうですね。
彦一:今夜はさ?いっぱい飲んで、美味しいもの食べて、で、腹割って話そな。
香枝:腹を…割って?
彦一:そう。完璧主義の良い子ちゃんな君の鎧、全部…剥がしたい。
香枝:私の事どうしたいんですか?
彦一:んー…酔わせたい…かな?
香枝:からかわないで下さい。
彦一:からかってへんよ。
酔ってあかんとこいっぱい見せて?
香枝:なに言ってるんですか?
彦一:何って『あかんとこいっぱい見せて』って言ってる。
香枝:趣味悪いです。
彦一:そんなことないよ?
あかん所いっぱい見せてくれるって仲良くなれてるって気がするやん?
香枝:恥ずかしいだけです。
彦一:恥ずかしくない。
香枝:…全然わかんない。
彦一:じゃあわかるまで、なんでも聞いて。
香枝:なんでもって…。
彦一:この数か月…何度か店や事務所で僕が仕事してる所、見てくれたやん?
香枝:ええ。
彦一:どう思った?
香枝:え?
彦一:僕、割とマトモやろ?
香枝:はい、割とマトモです。
彦一:なんやねん、そのオウム返し。ちゃんと言ってよ、どう思った?
香枝:いや、ちゃんと社長さんだなって思いましたよ…?
彦一:男としては?
香枝:あの、さっきから何言って…
彦一:僕は君にとって有りか無しか…どっち?
香枝:…無いこともないかなって。
彦一:ずるい返しするなぁ。
香枝:社長みたいな人、初めてなんです。
彦一:僕みたいなってどんな?
香枝:自信に満ち溢れてて、全部持ってて、女の子の扱いも上手。だから戸惑いますし翻弄されます。
彦一:(微笑む)そう思う?
香枝:そうやって私の反応楽しんでるのも知ってます。どうして私なんか?
彦一:初めて会(お)うた時に伝えたけど?
香枝:僕は君に“何かを”感じるってアレですか?
彦一:仕事柄ファーストインスピレーションを大切にしてるんよ。
何事も第一印象が肝心。
それと、僕は自信なんかないよ。
もしそう見えてるんなら上手く虚勢が張れているんやわ。
香枝:…。
彦一:子ども頃からそうやった。僕より足の速い人奴、勉強のできる奴、顔のいい奴、そんなん数え切れないほどおる。
僕はそんな奴らに負けたくなかった、ただの負けず嫌いや。
大人になってからも、親父やじいちゃんと比べられて、他の若手経営者とも牽制し合ってる。
持ってるっていうより、生まれる前から持たされてるだけ。
香枝:社長…。
彦一:香枝ちゃんとおるといらん事まで喋ってしまうな。
香枝:え…。
彦一:…戸惑って翻弄されてるんは僕も同じやで?
香枝:…。
彦一:…ワイン飲もっか。
香枝:はい。
彦一:白でよかった?
香枝:好きです、白ワイン。
彦一:そう、よかった。
なあ?この前“怖い”って言ってたやん?
あれって、どういう意味?
香枝:色々です。
傷つくのももう嫌だし、また恋をするのも。
彦一:うん…わかるよ。
傷つくのも、傷つけられるんが嫌やって思うことも。
せやけど…誰かを自分のモノにしたい気持ちも…(そっと手に触れる)
香枝:っ…。
彦一:止めることはでひん。
香枝:…やめて下さい。遊ばれるのはもうたくさんです。
彦一:そんなつもりない。
香枝:ワイン、おかわり下さい。
彦一:え?
香枝:酔わせたいんですよね?お望みままに。
彦一:香枝ちゃ…
香枝:いいから、おかわり。
彦一:(微笑んで)…うん。
【間】
香枝:(大分酔っ払って)お前はダメンズ好きだって言われてるんですけどぉ…そうじゃないんです。
彦一:へぇ?そうなん?
香枝:なっちゃうの。みーんないつの間にかダメな男に。
彦一:香枝ちゃんがやってあげすぎるんかなあ?
香枝:尽くすのはいけない事ですか?!
彦一:んーん、全然?僕も尽くすの好きやで?一緒やな。
香枝:…ちゃらい。
彦一:あはは、それ3秒おきくらいに聞いてる。
香枝:えええ?
彦一:ほら…なんか食べながら飲んでお願いやから。
香枝:やだ、食べない。
彦一:いいから食べて。はい、あーん。
香枝:あーん。
彦一:はい、よくできました。
香枝:くぉろもあつふぁいしなで(子ども扱いしないで が言えていない)
彦一:はいはい、そろそろ帰ろか、送ってく。
香枝:やだ…
彦一:え?
香枝:帰りたくない。
彦一:…。
香枝:一緒にいて?
彦一:ひとまず、ここ出よか。
【香枝のマンションの一室】
彦一:ほら、香枝ちゃん?
マンション着いたで?鍵は?
香枝:鍵…か…ぎ?…んー、あ、あったぁ。
彦一:開けるよ?
(扉を開ける)
彦一:よし。香枝ちゃん、部屋入ろう?
で、入ったら鍵ちゃんとかけるんやで。
香枝:もぉ…歩けない。
彦一:ああ、こら、こんな所で座り込まへんの。
香枝:ん…。
彦一:ほら、立って?
香枝:抱っこ。
彦一:な…、香枝ちゃん…
香枝:ひーこーいーちー、抱っこして。
彦一:(笑って)ほんま、難儀な子やなぁ…肩に手ぇまわして。
香枝:はーい。
彦一:まったく…理性を試されるわ。
…お邪魔します。ベッドルームあっち?
香枝:あっちー。
彦一:…ほら、ベッドやで。
あったかくして寝ぇや?鍵かけてポストに入れとくから。
香枝:やだ。(彦一に抱きつく)
彦一:ん?香枝ちゃん?離してくれな、帰られへんよ…
香枝:帰っちゃ、やだ。
彦一:いや、それは…
香枝:一緒にいて…お願い…
彦一:香枝…
香枝:すー…すー…ん…
彦一:……寝たん?
香枝:すー…すー…
彦一:ほんま、どっちが翻弄させてるんやろうな?
(頭をそっと撫でながら)…こんな姿、誰にも見せんといてや…。
考えただけで胸が痛いわ…な?香枝ちゃん?
【朝 香枝のマンションの一室】
香枝:ん…。いい…匂い…ブラック…コーヒーの……ん?(ぱちりと目を開ける)え?
彦一:おはよう、勝手にキッチン使わせてもろた。
香枝:あ…。
彦一:コーヒーインスタントやけど淹れたよ。
香枝:え?
彦一:カラダ大丈夫?昨日は無理させてごめんな?
香枝:…え?
彦一:でも、めっちゃええ夜やったな。ほんま楽しかっ―――
香枝:あ…あの…昨日はその…
彦一:?
香枝:私は…その…やらかしてしまった感じですか?
彦一:何を?
香枝:聞きます…?それ?
彦一:え?何言って――
香枝:私、酔っ払って肉食獣のごとく社長に襲い掛かりました…か?
彦一:…は?
香枝:え?
彦一:ぶっ、あはははは。なに言うてるの香枝ちゃん。
ちゃんと服見てみぃな。
香枝:昨日のまま…。
彦一:確かに色々あったとはいえ、酔った女の子の部屋で朝を迎えたことは謝るわ。ごめんな。
香枝:いえ、私が帰らないでとしなだれかかった記憶があるので本当に申し訳ないと思っております。
彦一:あははは。なにその丁寧な口調。
香枝:え…いつも通り…?
彦一:さあ、よく思い出してみて?
昨日、僕の事なんて呼んでた?
香枝:……ひ…彦…い…ち。
彦一:はい、正解。敬語なんか使ってましたか?
香枝:いいえ。
彦一:よくできました。
香枝:本当に申し訳ありません。
彦一:なんで謝るの?
香枝:だって社長にそんな、もうなんてお詫びしたらいいのか…
彦一:待って待って。僕、プライベートやって言うたやん?
香枝:でも…。
彦一:待ってって言うてるやろ?(香枝を抱き寄せる)
香枝:っ…あの。
彦一:平謝りして無かったことになんかさせへん。
香枝:…。
彦一:僕はめっちゃ楽しかった。香枝ちゃんは?
香枝:楽しかったです。
彦一:良かった…。なあ、次はいつ会える?
香枝:私よりも忙しいのは社長の方ですよね?
彦一:彦一。
香枝:社長。
彦一:ひーくん?
香枝:社長。
彦一:…頑固な子やなあ。あ、もう一回白ワイン飲む?
香枝:飲みません。
彦一:また飲ませたろ。
香枝:だめです。
彦一:キスも?
香枝:…。
(返事をまたずにキスをする彦一)
彦一:フライング。
香枝:もぉっ…。
彦一:そろそろ行くわ。すぐ連絡する。
香枝:…はい。
【間】
香枝:(携帯を手に取る)志づ乃さん、おはようございます。この間の仕事の話…お受けします。
ええ、パリでもNYでもどこにでも行きます。
…え?…ああ、ちょっと始まりそうだなって思ったんですけど、
どうしても怖くて…抱き捨ててもらおうと鎌をかけたんですけど、紳士的に交わされました。
言わないでください…馬鹿だってわかってます。
いいんです、もう…いい人なのも知ってます。でも…志づ乃さん?
どんなに甘いトキメよりも、仕事の方が、キャリアの方が裏切らないって、私…知ってるので。
不確定なモノにまどろむよりも、今は確かなモノにすがりたいんです。
はい、祇園での仕事が終わったら、すぐに発ちます。
(香枝の携帯電話のコール音が鳴り響き、留守番電話に切り替わる)
彦一:(留守番電話)久しぶり。もうすぐ仕事が終わるころかと思ってかけてみたんやけど…元気にしとる?
コーヒーでも飲みに行かないかと思って…連絡、待ってる。
香枝:…ごめんなさい。
【1カ月後、京都駅】
(キャリーバックを引きながらきょろきょろと見回る香枝の姿がある。)
香枝:えっと…普段電車なんか乗らないからわかんないなぁ…
彦一:お困りですか?お嬢さん。
香枝:え?…っ?!…しゃ…社長。
彦一:…(苦笑)ほんま、難儀な子やなぁ。
空港まで送っていくわ、乗って。
香枝:…?
彦一:あ、志づ乃さんが予約してくれはった新幹線はキャンセルしたから。
香枝:え?
彦一:だから僕の車に乗らな飛行機には乗れへんよ?
香枝:志づ乃さんと面識あるっておっしゃってましたね…。
彦一:せやな。
香枝:どういうつもりですか?
彦一:どういうつもり?…僕、これでも怒ってるんやで?早う、乗って?
香枝:…わかりました。
(車に乗り込む香枝。ゆっくりと車が進む)
香枝:…。
彦一:…。
香枝:…。
彦一:…志づ乃さんに全部聞いたよ。
海外での志づ乃ブライダルの店舗展開が決まって、ドレスデザイナーとして参加するって。
香枝:はい…。
彦一:いい話やんか、すごいチャンスもろたね。
香枝:…。
彦一:それを、一緒に喜ぶ権利…さっさともらっとけばよかった。
香枝:…私…。
彦一:どんなに甘いトキメよりも、仕事の方が裏切らへんて?
香枝:?!
彦一:不確定なモノにまどろむよりも…今は確かなモノにすがりたい…?
香枝:…。
彦一:わかるよ、その気持ち…全部。
香枝:…。
彦一:許せへんのは…あの夜、香枝ちゃんが自分を大切にしてくれへんかったこと。
香枝:…そうしたかったんです。
彦一:なんだ?
香枝:本気になるのが怖いから。
彦一:それ、僕が裏切るの前提で話してるんやな。
香枝:…。
彦一:何を言うても自分の中で勝手に組み立てて、僕の気持ち予測するやろう?
香枝:そうやって見透かすのやめて下さい。
彦一:図星やから腹が立つんよ。
香枝:…。
彦一:恋愛なんてこりごりやって思ってる?
香枝:はい。
彦一:…でも僕は君を諦めたない。
香枝:わたし―――
彦一:待ってるから。
香枝:そんな…。
香枝:(M)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。
彦一:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
香枝:(M)表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。
私はこの街を、あなたを…きっと
彦一:忘れない。
【エピローグ】
香枝:(M)日本へ戻ってくるのは3年ぶり……
空港で別れてからあの人とは1度も連絡をとっていない。
彦一:「待ってる」
香枝:(M)日本へ向かう空の中で…私は3年前のあの日を思い出す。
あの言葉に縛られていたわけではなかったけれど…
仕事に没頭した日々はあっという間だったし、
正直…恋愛をするという気持ちにもなれなかった…。
それくらい、自分に自信が欲しかったのかもしれない。
空港へ着いた私。
京都行きの新幹線はどこだったか・・・
彦一:「お困りですか?お嬢さん」
香枝:(M)…ああ。懐かしい声。
振り向くと…あなたがいた。
縛られていたわけじゃない。
期待していたわけでもない。
でも、あなたの声を聞いて…。
あなたのその笑顔を見て…。
私は今…涙を流している。
胸の奥が熱くなっている。
会いたかった…本当はずっとあなたに…。
あの日の時間が私の中で…また動き出す。
完