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残鬼灯酔々(ほうずきすいすい)

退廃と酒の果て

【登場人物】

霞沢 亨(かすみざわ とおる)
文士
酒に溺れ、過去を忘れようとする男。
祇園の裏社会と深く繋がり、青楼「蜻蛉(かげろう)茶屋」にも長く出入りしている。
彼の酒癖と暴力的な気質は、男娼たちの間でも噂になっていた。
しかし、それはすべて彼自身の罪から逃れるための手段だった。
かつて手にかけた男の影を振り払うように盃を重ねるが、酒が深くなるほど、その影はより濃く滲み出す。

多岐(たき)
蜻蛉茶屋の男娼
妖艶な美しさを持ち、蜻蛉茶屋の奥座敷に佇む男娼。
その微笑は柔らかく、言葉は軽妙だが、その奥には鋭い刃を潜ませている。
霞沢を初対面のように迎えるが、その態度は妙に馴れ馴れしく、時折、彼の過去を知っているような言葉を漏らす。
霞沢が何よりも恐れる「ある夜の記憶」を手繰り寄せ、じわじわと彼を追い詰めていく。
彼の目的は復讐なのか、それとも別の意図があるのか——

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【祇園 高級青楼「蜻蛉茶屋」】
霞沢:(M)湿った石畳の上に灯籠の灯が揺れる。
   祇園白川地下、夜の闇に沈む蜻蛉茶屋。


   表の華やかさとは違い、地下へ続く道には人気がなく、時折、冷たい夜風が吹き抜ける。

   俺は誰に見咎められることもなく、地下へと向かった。
   帳場の女が一瞬、こちらを見て口を開きかけたが、すぐに視線をそらし何も言わなかった。

   俺はこの蜻蛉茶屋の正規の客ではない。


   男娼を買うには正規の手続きを踏んだ後、与えられた部屋に通されるのが本来の流れだ。
   しかし、そんな手続きを踏んだことはない。
   踏む必要もないし価値もない。

   ある種、俺は暴力的に男娼たちを弄んできた。

   それが許されていたからだ。

   今夜もそう…だが、今夜は何かが違った。

 

 


(タイトルコール)
多岐:祇園×エンヴィ「文豪メランコリア」

 

霞沢:鬼灯酔々(ほおずきすいすい)

 

 


霞沢:(M)障子の向こうに、人の気配がある。
   しなやかな体つきの男娼が、静かに座っている。
   その男は俺の姿を見ても、怯えず、動じず、まるで俺が来ることを最初から知っていたかのように、静かに盃を掲げた。

 

多岐:…おいでやす

 

霞沢:初顔か?

 

(霞沢は、男を見下ろしながら言った。多岐は、その言葉に微笑を浮かべる。)

 

多岐:さぁ、どうどっしゃろ?
   うちは前からここにおりましたえ。

 

霞沢:名は?

 

多岐:多岐蕾(たきつぼみ)と申します。

   どうぞ、多岐と呼んどくれやす。

 

霞沢:ふん、知らんな。見覚えがあるような気もするが、どうでもいい。

 

多岐:そうどすなあ。

   先生はうちらの顔なんかいちいち覚えたはりませんやろ?
   そんなズレた眼鏡かけとらんと、新調しはったらどうどすか?

 

(霞沢は盃を置き、多岐を睨む。)

 

霞沢:この眼鏡は気に入っている。

   ネジがゆるんでいるだけだ。

 

多岐:ほな、早うネジをしめはったら?

 

霞沢:失くした。

 

多岐:あらあら、それはまあ、大変どすなあ。探すん手伝いましょか?

 

霞沢:おまえ…妙に馴れ馴れしいな。

 

多岐:あきまへんか?
   ほな、先生が他のお客はんとおんなじように、ちゃんとお支払い下さるんやったら、うちはすぐに頭下げますえ。

 

(霞沢の表情がわずかに強張る。多岐はくすりと笑い、盃を傾けた。)

 

多岐:まぁ、今夜は特別いうことで。

   うちがお相手させて頂きます。よろしおすか?

 

霞沢:(M)俺は唇を舌で湿らせた。

   何か引っかかる。
   だが、理由の分からぬ違和感を振り払うように、再び盃を口に運ぶ。
   酒の味が変わったのは、いつからだろうか。
   甘く、苦く、そしてどこか血の味がする。
   それでも飲むしかない。
   飲まなければ、思い出してしまう……

 

多岐:今夜も、よう飲まはりますなあ。

 

霞沢:飲まなきゃ、やってられんのさ。

 

多岐:せやろなぁ……先生は昔からそないなことばっかり言うてはった。

 

(霞沢は盃を傾ける手を止め、目を細める。)

 

霞沢:……昔?

 

多岐:ほんまに、うちのこと覚えてはらへんの?

 

霞沢:初めての蜻蛉。

   初めての酒。

   ……そういうことにしとこうじゃないか。

 

多岐:ほな、これは?

 

霞沢:(M)多岐はわずかに目を伏せ、懐から古びた紙片を取り出し、卓に置く。
   その紙には、何かが書かれている。

   滲んだ墨跡、かすれた筆跡——。

 

霞沢:なんだ、それは?

 

多岐:昔、先生が書かかはったんよ。
   覚えたはりませんか?

 

(霞沢は震える手で紙を拾い、目を細めて文字を追う。)

 

霞沢:“血で贖(あがな)え。忘れることは許されぬ”

 

多岐:……。

 

霞沢:こんなもの、知らん。

 

多岐:ほんまに?

 

霞沢:おまえ、俺を試してるのか?

 

多岐:先生……ほんまに忘れてしもうたんどすな。

 

霞沢:その言葉の直後、部屋の奥から低い呻きが聞こえる。

   振り向くが、そこには誰もいない。

 

影の男:本当に……忘れたのか。

 

霞沢:(M)ここには、俺とこの蜻蛉以外誰もいない。
   いや、本当にそうなのだろうか…。
   そう思考を巡らせる俺の前に、多岐は懐から、もう一つのものを取り出す。
   それは一本の簪。かすかに血のような染みがこびりついている。

 

多岐:これも、覚えたはりませんか?

 

霞沢:…なんだ、それは。

 

多岐:昔、先生がうちにくれたもんどす。

   これを持っとる間はずっと一緒や言うてはった。

 

霞沢:己の顔が引き攣るのがわかる。
   記憶の断片が、酒の深い霧の中から浮かび上がる—— 
   暗闇。

   血の匂い。

   倒れた男。
   見下ろす自分の手には、血塗れの簪。

 

影の男:血で贖(あがな)え。

 

霞沢:……何が目的だ。

 

多岐:目的……?

   そやなぁ、うちは先生と違て(ちごて)昔のことをよう思い出したなるんどす。

 

霞沢:昔のことだと?

 

多岐:例えば、そう…うちの兄ぃ(あにぃ)のこと。

 

霞沢:知らん……

 

多岐:ほんまに? なら、もう一つ見せましょか?

 

霞沢:(M)多岐は懐から、もう一枚の紙を取り出し、卓に置いた。
   俺は目を伏せたまま、紙に視線を落とす。

   そこには、数年前の帳簿の断片があった。
   俺の名前。
   そして、その下に書かれた…男の名は一一一

 

多岐:どうどす?

 

霞沢:…なんのつもりだ?

 

多岐:見覚え、あらはるやろ?

 

霞沢:さあな。

 

多岐:先生はあの夜……うちの兄ぃを一一

 

霞沢:証拠はどこにある。

 

多岐:先生、ほんまに気づいてへんかったんやね。
   あの夜、血に濡れた畳の上に転がっとったよ?
   あんたの眼鏡のネジが…

 

霞沢:それは…っ

 

多岐:(霞沢のズレた眼鏡をとり、ネジをはめ回す)ほら、これで眼鏡も元通り。どうぞ?

 

霞沢:俺は……何もしていない。何も知らな…

 

多岐:うちは知ってますえ。先生が兄ぃをここに呼び出して、酒飲ませて、……そして一一

 

霞沢:違う!

 

多岐:なら、なんであの夜、兄ぃは帰ってけぇへんかったんやろ?

 

霞沢:(M)ふいに障子の向こうから微かな足音が聞こえた。

   低い笑い声が混じり、影が障子に揺れる。

 

影の男:先生…

 

霞沢:おまえは……

 

影の男:覚えているか…あの夜を。

 

霞沢:(M)俺は身を強張らせ、盃を卓に叩きつけた。
   酒が飛び散る。
   錯覚だ、幻覚だと自分に言い聞かせようとするが、目の前の影は揺るがない。

 

霞沢:これは……夢だ……

 

影の男:夢だと思うなら、触れてみるがいい。

 

霞沢:(M)言われるがまま震える手を伸ばす。

   指先がその男の肩に触れる。
   …冷たい。だが、確かな質感があった。

 

霞沢:バカな……

 

多岐:ふふふ、どうどす?

   まだ「知らん」と言えますか?

 

霞沢:違うんだ……俺は、ただ……

 

影の男:言い訳か? いいご身分だな。

    酒を飲んで忘れたふりをすれば、なかったことになるとでも?

 

霞沢:違う……

 

影の男:血で贖え。

 

霞沢:やめろ……

 

多岐:もう、逃げらへんえ?

 

霞沢:やめてくれ…

 

影の男:贖え。

 

霞沢:やめろおおおおおおおおっ


(霞沢は、がくりと崩れ落ちた。)

 

 

多岐:(M)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
    沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
    おごれる人も久しからず。
    ただ春の夜の夢のごとし。
    たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。

 

 

霞沢:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。

 

 

​霞沢:(M)この街の朝。帳場の女が静かに奥の座敷を覗く。
   そこには、酒盃(しゅはい)を握りしめたまま動かぬ俺の姿があった。

   その口元には、血のような赤い酒が垂れている。

   女は静かに障子を閉じる。
   そして、騒(ぞめ)くでもなく、誰か人を呼びに行くでもなく、いつもように朝の準備を始めたのだった。

 

 

 

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