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 魑魅紅涙(ちみこうるい)

死の香りと鬼

斑鳩 透水(いかるが とうすい)
文士
美と狂気に取り憑かれた男。
鬼になりたいと願いながら、鬼になりきれない。
人の痛みを知りながらも、それを切り捨てることができない。
彼が本当に求めていたのは鬼の冷徹さか、それとも人の温もりだったのか——。

夜凪(よなぎ)
高級青楼 伽羅館の娼婦
美しく妖艶な雰囲気を纏うが、どこか冷たい影を持つ。
「鬼のなり損ない」を自称し、人間でありながら鬼のように振る舞う。
情を捨てられず、完全な鬼になれないことを自覚している。
彼女が望んでいたのは、鬼になることではなく、人としての美しさを手放さないことだったのかもしれない——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​​

斑鳩:(M)夜の祇園。
   障子越しに月が朧げに揺れ、伽羅の煙が薄く棚引く。 
   屏風には鬼が描かれ、彼らを見下ろしている。
   私は床几に腰掛け、長い指で煙草を弄ぶ。

 

夜凪:先生、えらい遠くを見つめて…どないしはったんどすか?

 

斑鳩:遠いか……。どこへ行っても、私は私を連れているだけだ。

 

夜凪:まぁ、そないな寂しいこと。
   旅は身を軽うするもんどすえ。

 

斑鳩:私のような男は、どれほど身を軽くしても、背負うものがある。

 

夜凪:ほな、それをいったん降ろしとくれやす。せめて、今宵だけでも…

 

斑鳩:ふっ…そうだな。
   伽羅の香というものは、不思議だ。
   清浄でありながら、どこか俗っぽい。
   まるで、美しい女の首を絞めるときの心地のように。

 

夜凪:ふふ、恐ろしいこと、おっしゃいますなあ。

 

斑鳩:実に心地がいい。
   死の香りに似ているからだろうか。

 

夜凪:うちは、伽羅の香によう馴れすぎて、死の匂いとは思うたことありまへんけど……。

 

斑鳩:では、君にとっての死の香りは?

 

夜凪:ん…そうどすなあ。
   ああ、男の人の手がぬくもりを失うときの匂い…とか?

 

(斑鳩は微かに瞠目し、夜凪の指先を見つめる。彼女の白い指が杯の縁をなぞる。)

 

斑鳩:君も鬼か?


 

 

(タイトルコール)
夜凪:祇園×エンヴィ「文豪メランコリア」

 

斑鳩: 魑魅紅涙(ちみこうるい)

 

 

 

 

夜凪:あら、おおきに。
   せやけど、うちは鬼やなんて、そんなたいそうなもんと違いますえ。

 

斑鳩:いや、君は鬼だ。
   鬼には、香がある。
   君の香りも、私を惑わせるには充分すぎるほどだ。

 

夜凪:ほな、先生は鬼に惑わされるおつもりどすか?

 

斑鳩:それも悪くない。鬼に魅入られた男の末路というものを、この目で見てみたい。
   “地獄変”の良秀は、己の美を証明するため、娘を炎の中へ投じた。
   世間は彼を狂人と罵るが、私は違うと思う。
   “美”を創る者が”鬼”と呼ばれるなら、それこそが真の美ではないか?

※地獄変(芥川龍之介著)

 

夜凪:それは“創る者”の理屈どすな。
   焼かれた娘の側からすれば、ただの地獄。

 

斑鳩:人間は、他人の地獄の上にしか美を築けぬ。
   君だって、そうではないか?

 

夜凪:ふふ……。うちは焼かれる娘やおへん。
   人の業の上で、ひらひらと舞うだけ。

 

斑鳩:まるで鬼だな。
   ならば、君は私よりずっと強い。

 

夜凪:せやけど鬼もまた、苦しみの中でもがいとるんどす。

 

斑鳩:鬼が苦しむ?

 

夜凪:情にほだされる夜もある。
   心の底がずぶずぶ沈んでしまう夜も…。
   鬼のままでいたいのに、人間のふりをせんならんときがある。

 

斑鳩:君はどちらになりたい?

 

夜凪:うちは…鬼のなり損ないどす。

 

斑鳩:なれぬか?

 

夜凪:なれまへん。
   鬼になるには、人の心を捨てなあかんけど……うちは、まだそれができへん。

 

斑鳩:君は私と似ているのかもな。
   私は鬼になりたいと思いながら、結局、ただ鬼を描くだけの男だ。

 

(夜凪は黙って杯を傾ける。伽羅の煙がふわりとたなびき、ふたりの影を細く裂く。)

 

夜凪:鬼になりたいんやったら、地獄へおいでやす。

 

斑鳩:私はもう地獄にいる。

 

夜凪:いいえ、まだまだ甘い。
   先生は人間の痛みを覚えてはる。

 

斑鳩:それを捨てたら、鬼になれるのか。

 

夜凪:ええ、なれますえ。
   せやけど……先生がほんまに鬼になったら、うちは寂しおす。

 

斑鳩:なぜだ?

 

夜凪:先生の言葉は、人間味があって愚かで温かく、そして美しい。
   もしほんまの鬼になってしまわはったら、その言葉も冷えきってしまいますやろ?

 

(斑鳩は夜凪の手を取り、その手の冷たさに微笑む。)

斑鳩:君は、鬼を愛したことがあるか?

 

夜凪:さあ…せやけど、これだけは言えます。
   うちが愛した人はみんな心に鬼を飼(こ)うてはりましたえ。

 

斑鳩:なら、私は君の鬼になろう。

 

夜凪:……あきまへん。
   先生は、鬼にはなれへん。

 

夜凪:鬼にならずとも、人のままで堕ちていくのもまた……美しいもの。

 

斑鳩:君は、鬼のなり損ないだと言ったな。

 

夜凪:ええ。

 

斑鳩:鬼には情が要らない。
   そして君はそれを捨てることが出来ないのだと…

 

夜凪:人の手のぬくもりが消えるたび、心の奥がなんや冷たい。
   忘れたふりをしてても、忘れられん。

 

斑鳩:ならば、君は鬼になりきれないまま、ずっとここにいるのか。

 

夜凪:……うちの居場所はここどす。
   なり損ないでも、騙し騙し生きて行けますよって。 

 

斑鳩:ならば、私はどこへ行けばいい?

 

夜凪:先生は……どこに行きたいんどすか?

 

斑鳩:私は、もう行くべき場所を知っている。

 

夜凪:……ほな、もうここには戻って来たらあきまへんえ。

 

斑鳩:なぜ…いや、そうかもしれぬな。
   だが、鬼になりそこなった香りは覚えておこう。

 

(夜凪はそっと顔を伏せる。着物の袖が揺れ、伽羅の香がふわりと舞う。夜凪はゆっくりと顔を上げ、斑鳩を見つめる。)

 

夜凪:先生……鬼になったら、何が見えるんやろ。

 

斑鳩:鬼の眼前に広がるのは闇だ。

 

夜凪:先生がほんまの鬼になったら、先生のこと思い出す度、漆黒が広がるんやろね。

 

斑鳩:ああ……そうかもしれぬな。

 

夜凪:……せやけど、先生はほんまに鬼になりたいんどすか?

 

斑鳩:……。

 

夜凪:先生の言葉は、まだ人間の匂いがしますえ。

 

斑鳩:君は、私が鬼になれないと言うのか。

 

夜凪:ええ、先生は鬼にはなれまへん。
   なりたいと願うても、それは叶わん。

 

斑鳩:なぜだ。

 

夜凪:鬼には情が要らん。
   けど、先生は人の痛みをきっと捨てへん。

 

斑鳩:……。

 

夜凪:先生は、なんも感じん鬼になりたいんどすか?
   愛さず、憎まず、ただ美を求める鬼に。

 

斑鳩:……。

 

夜凪:違うと…うちは思てます。
       先生は、愛して、憎んで、全てを心で感じはる。

 

斑鳩:それが、私の弱さか。

 

夜凪:それが、人間どす。

 

斑鳩:ならば、私は人間のまま朽ちるしかないのか。

 

夜凪:…それもまた美しさ。
   先生が望むままに、自由に選んだらええんと違いますか?

 

斑鳩:望む……か。私は、何を望んでいるのだろうな。

 

夜凪:鬼になりたいと言いながら、ずっと鬼を恐れてはるようにみえる。

 

斑鳩:恐れる?

 

夜凪:鬼になるには、すべてを捨てなあかん。
   人の痛みも、優しさも、温もりも、全部。

 

斑鳩:そして、美だけを残す。
   美を求めながら、美を感じられなくなる……それが鬼か。

 

夜凪:そうどす。鬼には情がない。情のない者に、美しさは見えへん。

 

斑鳩:皮肉なものだな。

 

夜凪:人の心があるからこそ、先生の言葉は美しい。

 

斑鳩:……。

 

夜凪:もし先生が鬼になったら、先生の言葉は温度のない、ただの無機質な響きになる。

 

斑鳩:それでも、私は鬼になりたい。

 

夜凪:先生……。

 

斑鳩:人はなぜ、鬼になりたがるのだろうな。

 

夜凪:それは……。

 

斑鳩:楽だからか。

 

夜凪:……。

 

斑鳩:情がなければ、何も感じなくて済む。

   痛みも、苦しみも、迷いも、すべて。

 

夜凪:せやけど、それは生きるいうことどす。

 

斑鳩:そうかもしれぬな……。

 

夜凪:人間でいることが、そんなに辛いんどすか?

 

斑鳩:辛い。恐ろしい。醜い。

 

夜凪:せやけど、人間には、美しさもある。

 

斑鳩:……。

 

夜凪:先生は、その美しさを知ってるはずや。

 

斑鳩:……君は、鬼になれ。なり損ないのまま終わるな。

 

夜凪:先生が鬼にならはるからどすか?

 

斑鳩:……私は、人間のまま消える。

 

夜凪:先生が、消える・・・

 

斑鳩:ああ……。

 

夜凪:ほな、先生が消えても、うちはここにおるさかい。

 

斑鳩:忘れるなと言うのか。

 

夜凪:うちが……先生を忘れまへん。

 

(夜凪は、ふわりと身を乗り出し、斑鳩の額にそっと唇を落とす。)

 

夜凪:先生が行かはるんは、地獄やのうて……もっと遠いとこどす。

 

斑鳩:……そうかもしれないな。

 

斑鳩:(M)夜凪は微笑み、そっと私の頬を撫でる。
   その指先は、ひどく冷たかった。
   障子の外には、青白い月が浮かんでいる。
   私はゆっくりと立ち上がり、夜凪を見下ろす。

斑鳩:君は……鬼になれるか。

 

夜凪:さあ…けど、うちはずっとここにおりますえ。

 

斑鳩:……私は、どこに行くのだろうな。

 

夜凪:それは、先生が決めることどす

 

斑鳩:(M)夜凪は微笑み、私は何も言わずに背を向ける。
   月は静かに光を落とし、伽羅の煙が揺れた。

 

 

 

 

 

 

夜凪:(M)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
    沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
    おごれる人も久しからず。
    ただ春の夜の夢のごとし。
    たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。

 

 

 

斑鳩:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。

 


 

 

斑鳩:(M)この街の夜は、ただ静かに、鬼の影を残して更けていく——。

 

 

 

 

 

 

 


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