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綿密幽微(めんみつゆうび)


──繊細な情愛と壊れかけの美しさを内包する、静かな夜の呼吸。


氷室 文弥(ひむろ ふみや):作家。理知と情熱のあいだで揺れる文学者。

余璃(あまり):氷室の弟子。詩人志望。かつて蜻蛉茶屋(かげろうぢゃや)の男娼だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舞台
大正9年、初夏。
京都・祇園。
文学者の集う洋館「忘却荘」の一室。
夜。雨。静かなレコードの音。
ふたりきりの部屋。
繊細に、孤独に、しかしどうしようもなく惹かれ合うふたりの魂が交錯する夜。

 

 

 

 

 

(雨音、静かなレコードの旋律)

文弥:雨の日は…いつもより機嫌がいいね。

余璃:雨の音が好きなんです、先生。

 

文弥:そうか。

 

余璃:夜の雨は、どうしてこんなにも、人をほどいてしまうんでしょうね。

 

文弥:君はいつも、詩のようなことを言うね。
   心に薄衣を一枚まとったまま、誰かの懐に飛び込もうとする。

 

余璃:では先生はその衣を、剥ぎ取って下さいますか?

 

文弥:それを望むなら、私は鬼になるよ。

 

余璃:鬼でも構わない。

 

文弥:っ……。

(タイトルコール)
余璃:祇園×エンヴィ「文豪メランコリア」

 

文弥:綿密幽微(めんみつゆうび)

 

(おもむろに机の引き出しを開け、万年筆と原稿用紙を取り出す)

 

余璃:また…書くんですか?
   死についての随筆を。

 

文弥:ああ。書いておかなければ、私は自分を許せない。
   書くことでしか、生きてる意味を見出せないからな。

 

余璃:先生の言葉は、時々……残酷ですね。
   まるで“愛すること”が、罰のように聞こえる。

 

文弥:愛するとは、奪うことだ。
   与えるふりをして、跡形もなく奪ってしまう。
   だから私は、君に手を伸ばせない。

 

余璃:でも私は……
   あなたの手で、跡形もなく壊されたいんです。

 

文弥:やめなさい。

 

余璃:ならば、なぜ蜻蛉茶屋から僕を買ったんですか?

 


(雨が一瞬止むように、沈黙)

 


文弥:…余璃、それは君が春を売る必要がなかったからだ。
   君はまだ若い。
   詩も書ける。
   素晴らしい未来がある。

 

余璃:そんなもの、いらない。
   僕が欲しいのは、“今ここにいるあなた”だけだ。

 

文弥:それは、欲望だ。恋ではない。

 

余璃:いいえ。
   欲望は所詮は獣の言い訳でしょう?

   欲して、求めて、狂うほど誰かを想う。
   それを“恋”と呼ぶのです。
   僕は今まさに…恋に堕ちてる。

 

文弥:君の言葉は甘美な罠だ。
   取り込まれて、堕ちてしまいそうになる。

 

(机に手を置く音、近づく足音)

 

余璃:堕ちて……。
   一度くらい誰かに堕ちてもいいじゃないですか。

(近づいた余璃が、そっと文弥の手を取る)

 

文弥:余璃……君は、なぜそんな簡単に私に触れるんだ。

 

余璃:先生。
   あなたの書く文章の行間にずっと探していたんです。
   僕の名前が……そこに、ひとことでもあれば、生きていけると思った。

 

(雨が再び強くなる)

 

文弥:そんな目をするな。
   そんな目で、私を見つめるな……。

 

(文弥、手を振りほどかず)

 

余璃:僕のことを、書いてください。
   愛してくれなくても、抱いてくれなくてもいい。
   でも、どうか……先生の“物語”のなかで、僕は生きていたい。

 

(間。時計の針がカチリと動く音)

 

文弥:私は……
   人を“綴る”ことでしか、愛せないわけではない。

 

余璃:それでも僕は先生の“言葉”になりたい。

 

文弥:どうしてそんなにこだわる?

 

余璃:(懐から古びた手紙を取り出す)これは、誰に宛てたものですか。
   引き出しの奥で、埃をかぶっていたこの手紙。

 

文弥:……読んだのか。

 

余璃:封はされていませんでした。
   そして名前も……宛名も、僕には見覚えのある筆跡でした。

 

文弥:それは、忘れていい手紙だ。

 

余璃:片瀬 陽一(かたせ よういち)……先生が一度も口にしなかったその名前が、手紙には何度も、まるで呪いのように綴られていた。

 

文弥:余璃……君には、関係のないことだ。

 

余璃:関係がない?
   僕がどれだけ、あなたの“空白”に嫉妬してきたと思ってるんです?

 

(間。蝋燭の芯が揺れる)

 

余璃:先生が、僕を見ない理由が少しだけわかりました。
   あなたはまだ、その人を愛している。

 

文弥:……違う。
   もう愛してなどいない。

 

余璃:では、なぜ手紙を残していたのですか?

文弥:(苦笑して)燃やせなかった。

 

余璃:……そうですか。

 

文弥:彼は……私を捨てて死んだ。

 

(余璃、ハッと顔を上げる)

 

文弥:裏切り合い、嫉妬し合い、傷つけ合いもした。
   そして最期の最後に、彼は「おまえが俺を壊した」と言い捨て、彼方へ消えた。

 

余璃:…………。

 

文弥:私は、自分が人を壊す人間だと……そのとき思い知った。
   言葉で救うつもりが、言葉で追い詰めていた。

 

余璃:そんなこと……言わないでください。

 

文弥:余璃。
   君の純粋さに、私は救われるべき人間じゃない。
   私はきっとまた、君をも壊してしまう。

 

余璃:(立ち上がり、手紙を握りしめる)なら、僕があなたの記憶を焼き払います。

 

(手紙を蝋燭に近づけ、炎が広がる)

 

文弥:余璃――ッ、それは!

 

余璃:(火を見るまなざしで)僕だけを見てください、先生。
   もう、過去はいらない。
   僕は“今”しか信じない。

 

(燃える紙が床に落ち、灰が舞う)

 

(間)

 

文弥:……君は、強いな。

   私は君のようには、生きられない。

 

余璃:強くなんかない。
   ただ、あなたを愛しているだけです。

 

文弥:(ため息のように)どうしてそこまで、私に執着する。

 

余璃:初めてだったんです。
   こんなにも、誰かを欲して、求めて、狂うほど想うことが。
   あなたの存在が、僕の思考を占拠してからというもの、呼吸まで……変わってしまった。

 

文弥:(そっと余璃の頬に手を伸ばす)罪な男だな、私は。
   君のような人にこんなにも愛されて。

 

余璃:(目を閉じて)その罪は僕が背負います。
   一生涯、罰をも受け続ける。

 

(沈黙)

 

文弥:……今日はもう遅い。眠りなさい。

 

余璃:先生……。

 

文弥:お願いだ。

 

余璃:……はい。

 

【間】

 

文弥:(M)余璃の目は、いつも私の奥を見てくる。
   言葉の層のさらに深く、まだ私すら触れていない場所へ……

   それが、恐ろしかった。

   触れてはならないものほど、美しい。
   壊してしまいそうなものほど、愛おしい。

   私にはもう、たくさんの“これから”を預かる余裕はない。
   先を描くことができない者に、誰かを愛する資格などあるだろうか。

   だけど今夜、余璃が触れた私の手は、その問いの答えを出していた。

   赦される必要はない。
   未来を約束することも、名前を残すことさえ望まない。

   それでも、今だけは。
   この腕の中に彼を迎えることだけが……

   私が“生きている”と呼べる、唯一の選択なのかもしれない。

 

【間】

文弥:(煙草を取り出し火をつける)

 

余璃:…先生?

 

文弥:起こしてしまったか……

 

余璃:眠れないんですか?

 

文弥:(彼を撫でて)いや。君が横にいると、眠ることさえ惜しくなる。

 

余璃:詩人みたい。
   そういうの、似合わないと思ってた。

 

文弥:君が私の中の、詩的な部分を呼び起こしてるんだろう。
   皮肉なことにね。

 

余璃:どうして?あなたほど、言葉を操れる人がこんなに躊躇うなんて。

 

文弥:言葉は――時に、命を奪う。
   君の熱に、私が溶けてしまうのが怖いんだ。

 

余璃:それのなにがいけないんですか?
   溶けても、崩れても、ふたりでなら、何にでもなれる。

 

(静かな沈黙。心音だけが響く)

 

文弥:昔、陽一と夜を越えたとき――
   私は“誰かと眠る”という行為の重さを知らなかった。
   ただ体を重ねて、それで繋がった気になっていた。

 

余璃:それを、後悔しているんですか?

 

文弥:違う。
   今のほうが、ずっと怖い。
   触れずに、君の熱を感じているこの時間が……狂おしいほど愛おしい。

 

余璃:先生……

 

文弥:けれど愛した記憶より、今…この瞬間、君を愛おしく思えば思うほど、自分が壊れてしまいそうで恐ろしいんだ。

 

余璃:……では触れてください。
   先生が壊れてしまうと言うなら、僕はその破片をすべて抱きしめる。

 

(指先がそっと重なり、絡む音)

 

文弥:君はどこまでも真っ直ぐだね。
   私のように歪んだ者に、そんな目を向けて……。

 

余璃:歪んでなんかない。
   壊れていたのは、僕の方です。
   蜻蛉茶屋に売られて、先生に出会うまでは、
   ずっと、自分という存在の価値がわからなかった。

 

(文弥、余璃の頬に手を添える)

 

文弥:君は、透明なままで私に届いた。
   誰の言葉にも染まらずに。

 

余璃:先生、僕は…あなたの言葉にだけ染まりたい。

(二人、顔を寄せる。唇が触れそうで触れない距離)

 

余璃:(震える声で)おねがいだから、触れてください。
   誰でもない僕を、あなたの“唯一”にして。

 

 

【間】

 

 

 

文弥:(目を閉じて)……余璃。
   君を抱いてしまったら、
   私はもう、自分を殺すしかなくなる。

 

余璃:じゃあ、殺して。
   僕の腕の中で何度も生まれ変わって……。

 

(ふたりの唇が重なる、深く、長く――)
(長い沈黙)
(やがて、余璃がそっと文弥の胸に頬を寄せ、呼吸を整える)

 

余璃:(囁くように)先生。
   約束してください。
   明日も、明後日も、こうして僕の隣で眠ると。

 

文弥:…約束など、私にはできない。
   けれど――もし、生まれ変わることがあるのなら、最初に名前を呼ぶ相手は……きっと、君だ。

 

(風が障子を揺らす音)

 

余璃:それで、十分です。

 

(ふたり、ぴたりと重なり合い、静かに呼吸を重ねる)
(文弥の手が、余璃の背中をなぞる。細く、骨ばった指。
(肩甲骨から腰にかけて、確かめるように触れる)

 

余璃:そんな触れ方をされると、この身体ごと、先生の中に溶けてしまいそうです。

 

文弥:溶けてくれ。
   この腕の中でしか、君を抱きとめられないから。

 

余璃:これは夢ではないですよね。

 

文弥:君の眼差しが、現実を曖昧にする。

 

余璃:先生……っ(文弥を組み敷いて)こうして見下ろすのが夢でした。

 

文弥:見下ろされるのは少しだけ、くすぐったいな。

 

余璃:触れても、いいですか。

 

文弥:もう、触れているような声だ。

 

余璃:逃げないで。

 

文弥:どこにも行かない。

余璃:まつげが、揺れました。

 

文弥:君の吐息が、吹きかけたんだ。

 

余璃:じゃあ、これは……?

 

文弥:っ…言葉より先に、答えてしまった。

 

余璃:(唇をかさねて)先生……熱い。

 

文弥:君が、火を灯したんだよ。

 

余璃:のど…震えてる?

 

文弥:君の声が、そこに残っているからだ。

 

余璃:……ここ、脈が速い。

 

文弥:君の指が、時を急かす。

 

余璃:(優しく文弥が肌に触れる)っ……その手が……ずるい。

 

文弥:君が、何も言わずに許すから。

 

余璃:それ以上、触れると……(文弥の唇が言葉をふさぐ)

 

文弥:……言葉を失くしたい夜も、ある。

 

余璃:こんなに息苦しいのに、苦しくない。

 

文弥:君で満たされると、息をするのを忘れるんだ。

 

余璃:先生……

 

文弥:余璃。

 

余璃:そんなに丁寧にされたら…僕はもう…っ、冷静ではいられない。

 

文弥:冷静である必要なんてない。
   君は美しい。
   私の指先が、それを覚えていたいだけだ。

 

余璃:先生、僕を壊して。

 

文弥:許さない。壊れずに、崩れてくれ。

 

余璃:先生の指、冷たいのに……触れられると奥が熱くなる。

 

文弥:冷たさは、君を忘れないための印だ。

 

(余璃、そっと文弥の胸に顔をうずめる)

 

余璃:……ここが、いちばん怖い。
   いちばん安心するのに、いちばん…永くはいられない場所。

 

文弥:私の胸は、君の聖域にはなれない。
   でも君がうずくまるなら、最後の居場所にはなる。

 

余璃:先生……約束をしてくれないのなら……これが最後なら、僕は一生…忘れません。
   この熱も、触れた場所も、全部……詩にします。

 

文弥:嬉しくもあり、怖さもあるね。

 

余璃:僕にとって、あなたは“男”であり、“世界”であり、“救い”だった。

文弥:(目を閉じ)それを聞けて、よかった。

 

 

【間】

余璃:(M)僕はひとり。
   彼の書斎にいる。
   雨がまた降り出している。

   寝台は整えられ、彼の姿はない。
   文机(ふづくえ)から僕宛の手紙を手に取り、封を切る。

 

文弥:余璃へ。

   君の愛に、私は救われた。
   それがどれほど過酷で、危うい光であったとしても。

   私は今日、ここを去る。
   どこへ向かうのかは、もう誰にも告げられない。

   私は言葉が出ないときがあったことを君は気づいていただろうか。

   昨日の夜、君に伝えたかったことの半分が喉の奥で迷子になっていたことにも。

   どうやら脳になにかがあるらしい。

   名医でもどうにもできないと。
   言葉を生む場所が、ゆっくりと死んでいくのを感じていた。

   だから君に……最後の夜を預けたかった。
   文字にならないものを、君の記憶のなかに閉じ込めたくて。
   君にそれを告げなかったのは、君を悲しませたくなかったからだ。

   でも、きっと君ならこの結末を、“悲劇”ではなく、“詩”にしてくれると信じている。

   最後に。

   君の唇に触れた朝、この世で一番美しい愛を知った。

   氷室 文弥

 

余璃:(M) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
   沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
   おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。


文弥:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。

 

(余璃、手紙を読み終え、無言で机に手を置く)
(そして静かに、ペンを取る)

 

余璃:(M)この街で僕は、あなたを忘れない。
   でもそれは、あなたを“引き止める”という意味ではなく、“生かす”ということ。

 

(ペン先が原稿用紙に音を立てて走る)

 

余璃:この手で、あなたを綴り直す。
   もう一度、生まれ変わらせるために。
   あなたの物語は――まだ、終わらない。

 

(雨が静かに止み、光が射し込む)


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