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#夜来香(イエライシャン)のかをりはまるで媚薬


男:女/3:2

​所要時間90分

 

入江 奏多(いりえ かなた)

インフラエンジニア・祇園近郊の百貨店を中心としたグループ企業全体のIT管理を中心とした業務を担当。

夫の人間的脆さや弱さに辟易としている。

冷たくあたり、彼を受け入れず手を離したのは自分が先だが、夫の裏切りを知り傷ついている。

愛用の香水はグッチ/フローラ・バイ・グッチ・ガーデン グレイシャス・チュベローズ。

 

本姓・東雲(仕事上の理由で旧姓を使用)

▸紅雨、秘する花なる…入江遥の戸籍上の姉

▸TGIF.毎週金曜、PM8:36.…東雲アタルの妻

 

 

※インフラエンジニアとは…企業全体の最適を見据えた IT投資の効率化のチェック、人材採用の改善、 IT組織体制の整備、などITマネジメント業務の変革を進める中心部門として計画策定や管理をしている。

 

 

 

 

蜂須賀 ルイ(はちすか るい)

奏多の通う美容室の20代のアシスタント。元オートレーサー。怪我で引退した。

高身長で筋肉質。包み込むような笑顔の優しい青年。

軽口を叩きながらも相手の気持ちを汲み取れる希少な男。

ある時、奏多と夫の関係を聞き、彼女に何かをしてあげたい放っておけない存在になる。

・冴島 小織(さえじま ちおり)

3人の子を持つ母。夫に女として見て貰えず、生活に不満はないはずなのに心が満たされない日々を送っている。

実家の小料理屋を継ぐために着付けや礼儀作法を学びに行った茶道教室での出逢いが彼女を狂わせる。

愛用の香水はジョー・マローン・ロンドン/チューベローズ アンジェリカ

 

旧姓・如月

▸蠱惑的アディクト…常盤小太郎の双子の妹

▸宵に燃ゆる堕天の焔…如月良馬の娘

 

 

 

・葛城 世那(かつらぎ せな)

茶道家。小織の通う茶道教室の講師。ミステリアスで不思議な雰囲気を持つ男。

小織の同級生で彼女に対して複雑な感情を持っていた。

どうやら彼の母親と、小織の父親に関係があるようだ。

本気で近づいたはずではなかったはずなのに、彼もまた深みにはまっていく。

▸宵に燃ゆる堕天の焔…葛城瑠璃の息子

 

 

 

・橘 律月(たちばな りつき)

ルイと同じ美容室で働く20代のアシスタント。

小柄で可愛くて小悪魔っぽい見た目と自分の生い立ちをフル活用しながら強かに生きている。

ノンバイナリーで生物学的には男性。

名のある会社の社長の私生児として生まれる。

愛人である母親が壊れていく姿を目の当たりにして不倫というものに嫌悪感を抱きつつ、冷めた目で見ている。

 

 

 

 

 

○この世では誰もが苦しみを味わう。そして、その苦しみの場所から強くなれる者もいる。

○女には本当に損な時がある。男に良くしてやって愛していることを見せれば見せるほど、それだけ早く、男は飽きてしまうのだから。

【※引用元 アーネスト・ヘミングウェイ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ルイ:(M)ふわりと甘い香りがした先にある絹糸のような髪と、凜然とした後ろ姿が眩しくて声をかけた。
   振り向いたその人はとても綺麗で、その瞳は涙に濡れ、ふくよかな唇はカタカタと震えていた。


世那:(M)あの人によく似た瞳の彼女は、彼と同じアンバーウッドの香りを纏っていた。
   掴まれた腕に感じた温度は酷く冷たく、私の胸の奥は鈍く痛み、過去のあらゆる醜穢(しゅうえ)がこの身に纒わり付く。


ルイ:(M) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
   沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
   おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。


世那:京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。

   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。


ルイ:(M)この街の、あの逢魔が時から俺は…


世那:(M)私は彼女から……目が離せない。

 

 

(タイトルコール)
ルイ:祇園×エンヴィ


世那:夜来香(イエライシャン)のかをりはまるで媚薬

 

 


【京阪三条近郊 Hair Salon&Spa-ADEYA-】

奏多:(M)いつもこちらを伺うように見つめる彼の瞳に辟易としていた。

   "手伝おうか?”

   そう伸ばされた手をわざと煩わしそうに押し退けてしまうのが、自分の悪い癖だと自覚していてもやめられない。
   やる事はちゃんとやっていたはずなのに。
   女には本当に損な時がある。
   尽くして愛していることを見せれば見せるほど、彼らは飽きてしまうのだから。
   そんな事を思いながら、いつも持ち歩いてる古い本に視線をうつす。


奏多:(呟くように)この世では誰もが苦しみを味わう。そして、その苦しみの場所から強くなれる者もいる。


ルイ:ヘミングウェイですか?


奏多:え?今、声に出てた?


ルイ:割としっかり。


奏多:(M)一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
   現実逃避したいからなのか…はたまた疲労が蓄積しているからなのか。

   ここは京阪三条駅近郊にあるヘアサロン-ADEYA(あでや)-。

   祇園の結髪士として有名なオーナーが経営するサロンの一つだ。
   彼女は確か私よりも若かったと記憶しているが、その活躍は輝かしい。
   そして彼は蜂須賀(はちすか)ルイ。
   彼にあの日、声をかけられ、このサロンに連れてこられたのが一年と少し前…今ではここの常連となっている。


ルイ:奏多さーん?


奏多:ん?


ルイ:どうしました?ぼーっとしちゃって。


奏多:あはは、悪い。ちょっと考えごと。
   それにしてもヘミングウェイだってよくわかったね。


ルイ:あー…


奏多:ん?


ルイ:奏多さんが前に好きだって言ってたから当てずっぽうです。


奏多:ああ、なるほど。


ルイ:(タイマーが鳴るのを聞いて)シャンプー行きますね。どうぞ。


奏多:ありがとう。


ルイ:(シャンプー台へ案内しながら)今日、いつものトリートメントとスパでいいですか?


奏多:うん、それでお願い。


ルイ:椅子動かしますね……首の位置、痛くないですか?


奏多:大丈夫。


ルイ:じゃあ、シャンプーしていきます。


奏多:(M)彼の指が私の頭を包み込む、程よい刺激が心地よくて意識を手放しそうになる。


ルイ:…今夜、会える?


奏多:(M)水流で掻き消されそうな囁きが、耳元で甘く疼く。


ルイ:奏多さん…


奏多:仕事中でしょう?集中しな。


ルイ:集中してますよ。力加減いかがですか?


奏多:いつもながら気持ちいいよ。その手、持って帰りたいくらい。


ルイ:俺ごとでいいならいつでもどうぞ。


奏多:はいはい。


ルイ:あ、すぐそうやって流す。


奏多:(M)そう笑って、丁寧に髪を洗いながら頭皮に優しく圧をかけてくる。
   首をグッと持ち上げ風池(ふうち)と天柱(てんちゅう)をなぞりながら下ろす。
   安心感のある大きな手、長くて骨張った指、完骨(かんこつ)を撫でられた瞬間、
   その指に乱された夜が脳裏をよぎり、思わず身震いをしてしまった。


ルイ:痛かったですか?


奏多:ああ、ちょっとだけ。


ルイ:疲れてます?


奏多:なんで?


ルイ:頭皮いつもより硬いから。ちゃんと寝れてますか?


奏多:……。


ルイ:もしかして、またベッドで寝てないんじゃ…


奏多:仕方ないだろ。ここ最近、まともに家に帰ってないんだよ。


ルイ:……店、終わったら連絡します。


奏多:強引だな…。


ルイ:嫌なら無視してくれていいですから。


奏多:……そういう言い方はずるい。


ルイ:それはお互い様です。


奏多:言うねえ?


ルイ:言いますよ?


奏多:可愛いやつ。


ルイ:え……


奏多:手、止まってる。


ルイ:ああ、すみません。


奏多:(意地悪そうに)いいえ?


ルイ:あ、なんか悔しいなこれ。


奏多:それはそれはご愁傷さま。


ルイ:ほんと、悔しいんですけど!


奏多:はいはい、手は動かせよ?


ルイ:めちゃくちゃ、しっかり動かしてますよね?!


奏多:ちゃんと気持ちいいよ。ほんと……その手、持って帰りた………


ルイ:…ん?


奏多:(シャンプー台で寝息をたて始める)


ルイ:…意外と子供みたいに寝落ちるんだよなぁ。

 

 

【京阪三条近郊 Hair Salon&Spa-ADEYA-営業終了後 スタッフルーム-】

律月:お疲れ様でーす。


ルイ:おお、おつかれ。


律月:ねぇ、ルイくん。カラー剤の発注かけたいんだけど一緒にチェックしてくれない?


ルイ:いいよ。


律月:ありがと。高い所、届かなくて。


ルイ:脚立出す?


律月:高い所はルイくんに任せるから大丈夫。


ルイ:……。


律月:なぁに?


ルイ:いや?上手に武器使ってるなと思って。


律月:ああ。小さくて可愛くて守ってあげたくなるでしょ?


ルイ:いや別に?


律月:ふふ。だからルイくんって好きなんだ。


ルイ:はぁ?


律月:あ、恋愛対象としてじゃないよ?人間としてね。


ルイ:人間として…ねえ。


律月:この見た目で得する事も多いけど、面倒な事も多いんだよね。
   ボクは今スタイリストになる事に全集中したいのにさ。


ルイ:へえ。


律月:あからさまに興味無い感じも好感度高いよ。プラス5000ポイント。


ルイ:変な奴。


律月:知ってる。


ルイ:なぁ、律月はカットのチェックどこまでいった?


律月:ロングとミディアムは合格した。
   ショートが合格点貰えたらスタイリストチェック入れる。


ルイ:あー、マジか…いいな。


律月:ルイくんはショート褒められてたじゃない。
   メンズもレディースも形作るの上手いって。


ルイ:俺はロングが上手くなりたい。


律月:この間何点だったの?


ルイ:85。


律月:惜しい。


ルイ:はぁ…。


律月:発注終わったらレッスンするでしょ?付き合うよ。


ルイ:ありがと。


律月:あ、ねぇ、終わったら久しぶりに飲みに行かない?


ルイ:ああ、悪い。先約あるから。また今度行こ。


律月:…ミズ・ヘミングウェイ?


ルイ:え?


律月:あの人いつもヘミングウェイの本読んでるよね。


ルイ:あの人って…


律月:ルイくんがカットモデルで声掛けた人。
   結局カラーとかスパばっかでカットしてるの見たことないけど。


ルイ:…うん。


律月:あの人って人妻でしょ。


ルイ:……。


律月:好きにすればいいと思うけど、優先順位見誤ったりしないでね。


ルイ:ああ。


律月:不倫なんて、生産性ないよ。


ルイ:わかってる。


律月:そう?ならいいけど。
   ボクはルイくんの事『いいライバル』だって思ってるんだから。


ルイ:え…。


律月:だから…勝手に自滅しないでよね。


ルイ:……。


律月:さてと、発注しよ。
   さっさと終わらせてレッスンして締めのビール飲まなきゃ。


ルイ:おっさんかよ。


律月:聞こえてるよ?早く行こ。


ルイ:わかったよ。

 

 

【祇園 裏千家茶道教室 禅那庵(ぜんなあん)】
※禅那とは仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す。

小織:(M)着物は外見の美しさだけでなく、内面の魅力を引き出すと母から教えられた。
   肌着、襦袢、着物へと袖を通し、帯をしっかりと締めると自然と背筋が伸び、自分の中で一筋通る気持ちになる。

   私がこの茶道教室へ通うのはお茶だけでなく作法の美しさを磨くためだ。
   家業の割烹料理屋の女将として修行をする事を決めて一年半。

   「なんかおまえ、老けたな」

   若くで結婚した旦那にそう言われたことが、家業を継ぐ決定打になったのを、当の本人は知る由もない。
   この怒りにも似た感情が内面の魅力に繋がるとも思えないけれど、負の感情を原動力にするのは昔から得意だ。


世那: 亭主はお客はんと一番身近に関わる存在どす。
   作法はぎょうさんありますけど、一番重要なんは『その息遣い』を感じ取ることどす。


小織:(M)そう言ってこちらを見るのは裏千家茶道教室『禅那庵(ぜんなあん)』の茶道講師、葛城世那先生。
   その視線で上の空だったことを見透かされた気持ちになり、私は姿勢を整え直す。


世那:茶道のルールは色々ありますけど、お客様が何をしたはるか常にアンテナを張るんがよろしおすな。
   例えばお茶を点てる前にお菓子を勧めますが、お客様がお菓子を食べはるんに時間がかかる場合もありますやろ。
   作法通りすぐお湯を注いでしもたら、食べ終わらはるまでにお茶が冷めてしまいますし、何よりゆっくりお菓子を味わうこともできまへん。
   気持ちよくその場に居られるよう、お客様の状態を把握するんが大切どす。


小織:なるほど。


世那:ご実家のお店でもおんなじ事どすな。


小織:そうですね。

   (M)優しいけれど深く冷たい漆黒の瞳に吸い込まれるのではないかと錯覚する。


世那:まぁでも、3人も立派にお子さんを育ててはるだけあって、人の感情の機微を感じたり、周囲に気を配らはるんがほんまにお上手やなあと思いますえ。


小織:いえ、母の域に到達するにはまだ足りません。


世那:『きさらぎ』の大女将は立派な方やさかい、後を継ぐんも力が入りますやろなあ。


小織:ええ……覚悟を持って決めたつもりでしたけど、今までまともに働いた事がなかったので道のりは長いですね。


世那:焦らんでもええと思いますよ。
   小織はんのペースでゆっくりでよろしおす。


小織:(M)柔らかい声音と嘘偽りのない言葉が響く。
   その心地良さに意識を持っていきたいのに、ぐっと掴まれるような感覚で私は現実に引き戻された。

   この人はきっと、私の事を何も知らない。

   私がどんな風に生きてきたか、どうしてこんな選択をしたか…知らない。
   だからきっと、あんな優しい言葉をかけてくれるのだ。

 

世那:小織はん?


小織:(M)呼びかけられてハッとする私の顔を覗き込みながら「お疲れどすか?」と彼は続ける。


世那:充分頑張ってはるんやさかい、あんまり無理したらあきまへんえ?


小織:……。


世那:(口調が変わり)こら、まだお稽古中ですよ?


小織:あっ、すみません。


世那:ほな、今日のお稽古はここまでにしときましょか。
   (綺麗にお辞儀をして)ご苦労さんどした。


小織:(世那にならってお辞儀をする)ありがとうございました。


世那:…お疲れ様でした。足崩して下さいね。


小織:ごめんなさい…お稽古中に。


世那:個人レッスンなので大目に見ましょう。
   少し時間もありますし、お茶菓子でもつまんで下さい。
   煎茶でも入れましょうか。
   お抹茶ばかりでは舌も飽きる。


小織:そんな事、お茶の先生が言っていいんですか?


世那:いけないでしょうね。なので他の方には内緒にしていて下さい。


小織:(M)その悪戯っぽい表情に凛と張っていた空気が緩むのを感じる。
   この人は本当に緩急を使い分けるのが上手い。
   そして、自分が特別なのかもしれないと思わせるのも…とても上手だ。


世那:(湯呑みを渡して)さあ、どうぞ。


小織:ありがとうございます…(湯のみに口をつけて)美味しい。


世那:よかった。
   …今日は意識が遠くへ行くことが多かったようだけれど、どうされました?


小織:すみません。


世那:叱ってるわけじゃないんですよ。ただ心配だっただけで。


小織:ありがとうございます…気をつけます。


世那:色々とお忙しくされてるのは存じ上げてますよ。
   でも、あまり無理をなさいませんように。
   頑張りすぎは身体に毒ですよ。


小織:ふふ。


世那:どうしました?


小織:葛城先生、いつも『頑張ってるんだから無理するな』って言ってくれるから。


世那:ええ。


小織:それが本当に嬉しいなって。


世那:本心ですよ。


小織:主婦業長くやってると、なんていうか…自分がやってる事、全部が当たり前みたいに過ぎていって。
   感謝とか労いの言葉もいつ貰ったか覚えてないし。
   些細な言葉でも胸に染みるのかな。


世那:何か悩み事でも――


小織:ああ、ううん!なにかあったわけじゃないんです!全然!平和!いたって平和です!


世那:(肩にそっと触れて)やっぱり、無理してませんか?


小織:(M)肩にそっと置かれた手。
   これに深い意味はないとわかっているのに小娘のように身体が跳ねてしまいそうになる。


世那:小織さん…?


小織:(被せるように)あ、やば、塾のお迎え行かなきゃ!
   すみません、葛城先生。私もう行かないと。今日も本当にありがとうございました!


世那:え、あ、気をつけて!(小織の背中を見送って)……そういう隙が男を煽る事になってるって、きっと気づいてないんだろうな。

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【烏丸室町ワインバー QUATTRO CAT(クワトロキャット)】

奏多:へぇ…?世那にしては随分ゆっくり口説こうとしてるんだな。


世那:人聞きの悪いこと言わないでくれる?
   それじゃあまるでいつも誰かを口説いてるみたいじゃない。


奏多:うん。いつもサラッと落として飼い慣らすイメージ。


世那:それは営業。もしくは処世術。


奏多:寂しい女のあれやそれを満たして、おまえは懐を満たしてもらうってか?


世那:お稽古代しか頂いてないよ。


奏多:寄付金は別?


世那:当然だろ?


奏多:後ろから刺されないようにしろよ?


世那:何か勘違いしてるみたいだけど、客をその気にさせて搾り取るだけ搾り取るような真似はしてないよ。
   焦らして焦らして、手の平で転がして、妄想を膨らませてやるのが私の仕事。


奏多:馬鹿な女が妄想を現実にしようとしない?


世那:飴と鞭を使い分けて上手に調教してるから問題ない。


奏多:ふーん?さっさと抱いてやった方が手っ取り早そう。


世那:彼女たちは夢を見るために金を落として行くんだよ。
   抱いて現実を見せてしまったら、あっという間に夢から醒める。
   そんな野暮なことはしない。


奏多:なるほどね。


世那:入江、君もしかして欲求不満?


奏多:は?


世那:毒の奔流(ほんりゅう)に飲まれそう。


奏多:……。


世那:まあ、いいけど。もう少し飲んでその毒全部吐き出せば?


奏多:悪い。


世那:眠れてないんだろ。


奏多:うん…帰っても落ち着かなくて。


世那:離婚しないの?子供もいないんだし。


奏多:話し合おうとすると向こうが過呼吸おこす。


世那:……。


奏多:収入も私の方が上だし、マンションも私名義。
   それに今、あの人の母親が入院しててお金もかかるんだよ。お義母さんにはお世話になったから放っておけない。
   (大きなため息をついて)要するに捨てるには不安が多すぎて無理ってこと。


世那:なのに向こうは不倫してるって?


奏多:そうだよ。


世那:黙ってる必要ないんじゃない?


奏多:今は私も同じ穴の狢。だから同罪だな。


世那:同罪…なのかな、それ。


奏多:え?


世那:入江の旦那は罪深い男だと思うけど。


奏多:だからずっと旧姓で呼ぶの?


世那:いや?


奏多:じゃあなんで?


世那:しののめって舌噛みそう。


奏多:(笑って)なんだよそれ。


世那:子供の頃から入江って呼んでたんだからいいでしょコレで。


奏多:そうだな。


世那:彼氏は優しくしてくれるんだろ?


奏多:彼氏とかじゃないよ。


世那:じゃあなに?


奏多:…わかんない。


世那:あれだろ?前に言ってた元オートレーサーの美容師。


奏多:うん。10代から活躍してたんだけど…事故で怪我したのをきっかけに引退して、今の仕事してるんだって。


世那:そうらしいな。蜂須賀って珍しい名字だし調べたらすぐ出てきた。
   界隈じゃ随分注目されてたみたいだけど。


奏多:ああ…だから当時は相当キツかったんじゃないかな。


世那:放っておけなくなった?


奏多:……。


世那:入江は昔からそうだよね。


奏多:なにがだよ。


世那:姉御肌で母性本能が強い。


奏多:うるさいな。


世那:継母や義理の妹にも世話焼いて。


奏多:家族になったんだからいいんだよそれは。


世那:選ぶ男も昔から変わり映えしないしねえ。


奏多:あんただって昔から女の趣味変わってないだろ?
   みんな学生時代に好きだった女に似てる。


世那:……。


奏多:ほら図星。なんだっけほら、小料理屋の娘の…


世那:…如月。


奏多:そうそう、如月小織。


世那:……。


奏多:なに?どうした?


世那:彼女にまた会ったんだよ。


奏多:え…マジで?


世那:向こうは私の事を覚えてないようだけどね。


奏多:なぁ…もしかして、さっき話してた女って如月小織の事?


世那:…そうだよ。


奏多:(笑って)あんたこそ、もう少し飲んだ方がいいんじゃない?


世那:うるさいな。

 

 

【間】

 

 

(仕事が終わり電話をかけるルイ)

ルイ:もしもーし、奏多さん?


奏多:仕事終わった?


ルイ:うん。今どこですか?


奏多:Quatre Cat(クワトロ キャット)って店わかる?


ルイ:ああ、何度か行ったことある。


奏多:そっか、ならすぐわかるね。
   良かったら来ない?連れもいるけど。


ルイ:え?


奏多:無理にとは言わない。


ルイ:行きます。


奏多:気をつけて。


ルイ:うん。

 

 

【間】

 

 

【烏丸室町ワインバー QUATTRO CAT(クワトロキャット)】
(店内に入り周りを見渡すが奏多の姿が見えない)

ルイ:あれ…どこだろ。


奏多:蜂須賀くん、お疲れ様。


ルイ:あ、よかった。全然見当たんなくて。


奏多:3人になるし個室に移動させてもらったんだ。
   ごめんね、電話で伝えるの忘れてた。


ルイ:ううん。


奏多:こっち。(ルイについてくるように促す)茶道家の連れがいるって話覚えてる?


ルイ:ああ、よく飲んでるって言ってた…


奏多:そう。一度紹介しておきたいと思って。


ルイ:うん。


奏多:(個室のドアを開けて)世那、蜂須賀くん来た。


ルイ:こんばんは。


世那:こんばんは。お仕事終わりに呼び出して申し訳ない。


ルイ:いえ。


世那:葛城です。初めまして。


ルイ:蜂須賀です。


世那:以前から君の話は聞いていてね。一度会ってみたかったんだ。


ルイ:俺も葛城さんのお話伺ってました。


世那:かしこまらなくていいよ。お酒は飲める?


ルイ:はい。


世那:好きなの頼んで。


奏多:お腹もすいてるでしょ?


ルイ:あ、うん…


世那:(ふっと笑う)


奏多:なに?


世那:いや?


奏多:絶対よからぬこと考えてる。


世那:さあ、どうかな。


ルイ:……。


奏多:含み笑いが腹立つ。ああ、それより蜂須賀くん、何がいい?


ルイ:とりあえずビールと、えーと…なんか適当に頼んでもらえますか?


奏多:わかった。あれだよな、椎茸は抜くんだろ?


ルイ:食べれるって。好んで食べないだけ。


奏多:あはは、わかったよ。頼んでくるから待ってて。


ルイ:ありがとうございます。


世那:(奏多の背中を見送って)どうぞ、座って。


ルイ:はい。


世那:物怖じしない佇まいが素晴らしいね。


ルイ:え?


世那:君みたいな人に惹かれるのがよくわかるよ。


ルイ:一目見てわかるもんですかね。


世那:好戦的な態度も好ましい。


ルイ:牽制ですか?


世那:大正解。
 

ルイ:それって友人としてですか?それとも…


世那:勿論、友人としてだよ。一回り以上歳の離れた女に手を出す若い男の顔が見ておきたくてね。


ルイ:いかがですか?


世那:悪くない。


ルイ:それはどうも。


世那:つかぬ事を聞くけど、彼女は君を頼ったり甘えたりする?


ルイ:どういう意味ですか。


世那:そのままさ。入江は基本的に人に頼らないし甘えない。
   普段は他人と一定の距離を置いてるだろう?
   だけど懐に一度入れた人間には情深い女だから、旦那にも見切りを付けられずにいる。


ルイ:はい。


世那:そのズルズルと繋がった鎖を君は断ち切ろうとしてるの?


ルイ:そのつもりです。


世那:迷わず答えるのは若さかな?


ルイ:勢い大切にしてるんで。


世那:否定しないんだ?


ルイ:若いのは事実ですから。


世那:なるほど。確かに若い。


ルイ:……。


世那:(笑って)他人に言われると腹が立つよね。


ルイ:そういうわけじゃ…


世那:酔っ払いの戯言に付き合わせてすまない。


ルイ:いえ。なんていうか、安心しました。
   あなたみたいな人が奏多さんの友達に居てくれて。


世那:そう?牽制し過ぎたかと思ったけど。


ルイ:(笑って)最初にあの人、口説いた時を思い出して懐かしくなりましたよ。


世那:え?


ルイ:幼なじみでしたっけ?やっぱり仲良いと似るんだなって。


世那:あはは。入江が聞いたら憎まれ口を叩くだろうけどね。


ルイ:それも聞いてみたいな。


奏多:(入ってきて)お待たせ。ビールとつまみ作ってもらって来た。
   あとで蜂須賀くん用に腹にたまりそうなの出すって。(二人の視線を感じて)…ん?なに?


世那:いや?


ルイ:別に?


奏多:なんだよ二人して…ニヤニヤ見るなよ気持ち悪いな。

 

 

【祇園 割烹きさらぎ】
(カウンターで一人酒を飲む律月。空いたお猪口に小織が酒を注ぐ)

小織:(徳利が空になって)おかわりは?


律月:明日休みだし、もう二合もらおうかなあ。
   小織ちゃんも飲まない?そろそろいい時間でしょ?


小織:じゃあ頂こうかな。(厨房に向かって)お兄ちゃん、熱燗二合お願いします。


律月:あ、はじめさんとひふみくんにもお酒どうぞって言って。


小織:ありがとう。


律月:(ぐっと酒を煽って)はぁ…美味し。


小織:本当に美味しそうに呑むよね。


律月:そんなボクと早く乾杯して。


小織:じゃあ、おビール頂くわ。


律月:うん、呑んで呑んで。


小織:ちょっと待っててね。あ、律月くん、もう少し何かお腹に入れたら?
   今日あんまり食べてないでしょ?無理にとは言わないけど…。


律月:ありがと。お任せで作ってもらおうかな。


小織:わかった。(笑顔を返して厨房へと向かう)


律月:(残ってる酒に口をつけて)ふぅ…。


(店の引き戸が開く)


小織:おこしやす。


世那:こんばんは。


小織:葛城先生、いらっしゃいませ。


世那:まだ大丈夫ですか?少し飲み直したくて。


小織:どうぞ。カウンターでも構いませんか?


世那:ええ。


律月:こんばんは。


世那:ああ、こんばんは。君も来てたんだね。


律月:葛城先生、最近よく会うね。


世那:本当だね。


小織:お飲み物は?


世那:赤をグラスで。


小織:かしこまりました。(徳利を律月の手元に置いて)はい、律月くん、お酒。


律月:ありがと。


小織:お料理もう少し待ってね。


律月:はーい。あ、ねえ?先生も後でお酒御一緒にいかがですか?


世那:ありがとう。じゃあ後で少し。


律月:やった。


小織:律月くん、あんまり葛城先生に飲ませ過ぎちゃ駄目よ?この間だって…


律月:この間めちゃくちゃ楽しかった!先生お酒本当に強いんだね。


世那:それほどでもないよ。


律月:またまたぁ、そんな事ないって。


小織:(赤ワインを世那の手元において)こちら、本日の赤はブルゴーニュ・ピノ・ノワールです。


世那:ありがとう。


小織:先日も遅くまでお付き合い頂いてありがとうございました。本当にお仕事に差し支えませんか?


世那:大丈夫ですよ。それに明日は夕方からなので。


律月:じゃあ、ゆっくりできる?


世那:(笑って)そうだね。


小織:すぐそうやってお引き留めするんだから。


律月:独り酒ほど寂しいものはないんだもん。
   いいでしょう?付き合ってよ。


小織:もう…。


世那:私は構わないよ。


律月:やった。


(カウンターに置いていた律月のスマートフォンが揺れる)


律月:ん……今日はしつこいな。電源落としとこ。
   (素知らぬ顔をしている二人を見て笑って)こういう時さ"電話に出なくていいの?"とか"誰から?"とかって聞いてこない人たち良いよね。


小織:大概の大人はそんなこと聞かないわよ。


律月:えー、そう?


世那:私はさほど他人に興味がないだけかな。


律月:それ好感度上がる。プラス10000ポイント。


世那:君、変わってるって言われるでしょ?


律月:うん。今日も同僚に"変な奴"って言われた。


世那:で、また好感度が上がるわけだ。


律月:爆上がり。


世那:あはは、本当に面白い子ですね。


小織:私は見てて冷や冷やします。


律月:お世話かけます。


小織:どういたしまして。


律月:ふふ…あのね?聞いてくれる?
   他人にさほど興味ないっておっしゃる方に大変申し訳ないんですけど。


世那:構わないよ。なに?


律月:さっきの電話の相手…誰だと思いますか?


世那:んー…男性。恋人ではなさそう…でも、ただならぬ関係の人、かな。


律月:さすが。いい線いってる。


世那:そう?


律月:父なんだ。


世那:へえ。


律月:ボク、愛人の子でね。年に数回くらいしか連絡なんてなかったのに最近しつこくて。
   口座に入って来るお金もどんどん増えていくし…なんだか癪だから、いつも酒代に変えてやるの。
   あいつからもらうお金、全部飲み干してやろうと思って。


世那:いいんじゃない?どう使うかは君の自由だ。


律月:だよね。


世那:でも、どうして急に連絡が増えたんだろう。


律月:ああ…多分、母が死んだからじゃないかな。


世那:そう。


律月:男に執着して、母親の役目を投げ出して女である事に固執したのに、ぽっとでの若い女に負けてあっさり捨てられて…独り淋しく死んじゃった。


世那:……。


律月:こんな話、流石に引く?


世那:引かないよ。


律月:優しいから?


世那:違う。


律月:それも好感度上がる。でも、なんで?


世那:当ててみて。


律月:まさか先生も愛人の子?


世那:残念、はずれ。


律月:えー…じゃあ、なんだろう。ヒントは?


世那:そうだな…君の境遇に全く共感出来ない訳じゃない。


律月:境遇ねえ…。あ、だめだ頭回らない。酔ったかな。


世那:降参しとく?


律月:うん、考えるの面倒。


世那:あはは、正直でいいね。


律月:それでそれで?


世那:私の母はアンモラルな女性だった。


律月:不倫とは違うの?


世那:もっと不道徳。その最期も彼女らしいと言えばそうなんだと思う。


小織:……。


律月:先生のお母さんも独り寂しく死んじゃったの?


世那:ううん。彼女はある意味「幸せ」だったと思う。


律月:なにそれ?


世那:母はね、星の数ほど不貞を重ねた男たちの中でも一番のお気に入りと…一緒に死んだんだ。


(ガシャン――と音を立ててグラスが割れる)


律月:っ…びっくりした。小織ちゃん大丈夫?


小織:ごめんね、手が滑っちゃって。


世那:怪我はないですか?


小織:ええ……。

   (M)返事もそこそこに、私は落としたグラスの破片を拾い集める。
   彼を知っている…私は彼を知っていたんだ。
   そして彼も知っている…多分、きっと、全部……

 

 

【京阪出町柳近郊マンションの一室】
(寝室にて、背中越しに奏多を抱きしめるルイ、奏多は眠たそうにしている)

奏多:なぁ…。


ルイ:あ、力強かったですか?


奏多:いや、腕痛くないか?ずっと私の体の下に敷いて。


ルイ:痛くない。


奏多:でもここ、怪我したとこだろ?


ルイ:4年も経てば痛みもないですって。


奏多:でも……


ルイ:痛くないってば…(更に強く抱きしめる)


奏多:ちょっと、それは流石に苦しいって…


ルイ:少しだけ……


奏多:うん。


ルイ:…奏多さんの香り、安心する。


奏多:蜂須賀くん…


ルイ:ん?


奏多:事故の事…思い出したりする?


ルイ:……。


奏多:ごめん、不躾だった。


ルイ:ううん、そんな事ない。普段そんな質問してこないからびっくりしただけ。


奏多:そうだよね。


ルイ:質問の答えだけと…


奏多:うん。


ルイ:思い出しますよ。でも、もうちゃんと過去の事だって整理はついてる。


奏多:そっか。


ルイ:俺、今ね?美容師として邁進中なんです。頭の中はスタイリストになる事でいっぱい。


奏多:応援してる。


ルイ:早く奏多さんの担当になりたいしね。


奏多:そっち向いていい?


ルイ:え…?


奏多:(ルイと向かい合わせになり)待ってる。


ルイ:っ…(抱きしめて)可愛い。


奏多:蜂須賀くんって、すぐ『可愛い』って言うよね。こんなオバサンつかまえてさ?


ルイ:奏多さんはオバサンじゃありません。


奏多:ありがと。


ルイ:本当に可愛いって思ってるから言ってる。


奏多:わかったから…もう恥ずかしいからやめて。


ルイ:可愛い。


奏多:口ふさぐよ?


ルイ:奏多さんの唇でならいくらでも。


奏多:…なぁ…あのさ?


ルイ:はあい?


奏多:私が離婚するって言ったらどうする?


ルイ:……。


奏多:困る?


ルイ:困らないですよ。


奏多:無理…しなくていいんだよ?


ルイ:今夜の奏多さんは、なんだか違う人みたい。


奏多:ごめん……。


ルイ:ううん。


奏多:眠気と酔いも相まって…変なこと言ってる気がする。


ルイ:かわいいよ。


奏多:だから……


ルイ:ねぇ、もう一回していい?


奏多:元気だな。


ルイ:だめ?


奏多:抱いてやりたいけどまた今度な…もう、寝そう。


ルイ:寝れそうなら寝て?何時に起きますか?


奏多:…今日、泊まってもいい?


ルイ:え、うん…勿論いいですけど。
   大丈夫なの?帰らなくて。


奏多:金曜だから…。


ルイ:ん?


奏多:(眠りにつく)すー…すー…


ルイ:もう寝ちゃった?(微笑んで、おでこにキスを落とす)おやすみ。

  (M)子供のように寝息を立てて眠る彼女を起こさないように俺はベッドから抜け出す。
   シザーケースと練習用のマネキンを取り出すと、リビングへと向かった。
   美容師を目指して3年…オートレーサーを諦めて4年。
   彼女が心配そうに触れるどの傷にも、もう痛みはない。


律月: 勝手に自滅しないでよね。


ルイ:(M)律月の言葉に動揺しなかったと言えば嘘になる。
   彼女が俺に歩み寄ろうとしている事や、この部屋で朝を迎えるのが嬉しい反面、例えようのない不安に襲われる。
   自分の中の矛盾に答えが出るわけもなく、俺はひたすらウィッグに向かってハサミを動かした。

 

 

【祇園 割烹きさらぎ】

深夜、玄関の灯りは落とされており店内には小織、世那、律月しかいない。

世那:(M)幼少の頃から母の茶室には入ってはいけないと言われていた。
   高価な茶器があるからだと聞かされていたが、歳を重ねていけば察しもつく。
   茶室で若い男をついばみ、パトロンと戯れ、そしてあの人と忍び逢う。


律月:魅力的な人だったんだね。


世那:(M)そう誰もが言うけれど、母は決して器量の良い女ではなかった。
   しかし男心を擽る魅力と色香を放ち、彼女は数多の男達を翻弄する。
   それは父も例外ではない。
   母と随分歳の離れていた彼は彼女を玉のように可愛がり、盲目に溺愛し、私が中学に上がる前に突然死んだ。
   母は一度も泣かなかった。嘘でも泣いて欲しかった。

   父が死んでから、あの人は茶室だけてなく家にまで来るようになった。
   女手一つで茶道と母親業をこなすのは大変だろうと言って台所に立ち、母と私に手料理を振る舞う。
   私が居るのも気にせず母の腰を抱きよせ、母も雌猫のようにしなだれ掛かる。

   そして料理人には不相応のアンバーウッドの香りをそのカラダにたっぷり移し、明け方にはどこかへ行ってしまうのだった。

 


世那:一度、街で彼を見つけて、その後をつけた事があるんだ。


律月:へぇ…どうして?


世那:何故そうしようとしたのかは覚えてない。
   ただの興味だったのかもしれないし、彼に何か言ってやりたかったのかもしれない。


律月:何か言えた?


世那:いや…それがそうもいかなくて……


律月:え?


世那:彼の娘だという人に見つかってしまってね。


律月:うわ…最悪。


世那:彼女は私が誰なのか分かっていたようで、怒ってるような泣いてるような顔で睨みつけてきた。


律月:それからどうしたの?


小織:(息をのむ)


世那:(小織を横目で見て微笑んで)…どうもしない。出来るわけもないしね?
   ほどなくして母とあの人が亡くなって、私は父方の親戚に引き取られて今に至る。


律月:そっか…。


世那:ふふ、随分長い昔話になってしまったね。帰らなくて大丈夫?


律月:(時計を見て)こんな時間か…そろそろ帰ろうかな。小織ちゃん、今度こそボクに送ってね?


小織:(苦笑して)もう、請求書はお父様に送れって言われてるの知ってるでしょ?


律月:ここのは自分で払いたいの。あの人にもそう言っておいて。


小織:わかった。


律月:ありがと。


小織:タクシー呼ぼうか?


律月:今夜は歩いて帰る。


小織:そう、気をつけてね。


律月:うん、ごちそうさま。先生またね。


世那:ああ、またね。


小織:また、おこしやす。(律月を見送って)……温かいお茶でもいれましょうか。


世那:ええ。


小織:(お茶そそいだ湯呑みを差し出す)どうぞ。


世那:ありがとう。


小織:……。


世那:あの話には本当は続きがあるんです。


小織:え?


世那:彼女に見つかったあの日、怒ってるような泣いてるような目で睨みつけられたあの夕暮れ時、私はこんなに美しい物があるのかと思いました。


小織:……。


世那:覚えていますか?


小織:…なにを―――


世那:私としたこと。


小織:何のことだか…


世那:思い出させてあげましょうか?


小織:(息をのむ)…あの頃の初心な娘じゃないんですよ。


世那:ああ…だからいい。


小織:冷たい手。


世那:いくら呑んでも温まらなくて…温めてくれる?


小織:本当に…そうして欲しいんですか?


世那:して欲しい…。


小織:(M)彼の指先が触れた瞬間、夜風が胸をかすめるように冷たかったあの日を思い出す。
   怖かった。
   父が、あの女性(ヒト)が、あなたが。
   だけど今の私なら…その凍えた手を温められるかもしれない。


世那:(M)彼女の温もりを、私はずっと記憶から遠ざけていた。
   あの日、彼女の瞳に映った私は、ただただ…無力だったから。
   手を伸ばせば壊れてしまうと、怖くて何もできなかった。


小織:…あの日、すべて壊れて無くなれと思っていたんです。


世那:そう思っても仕方がない。


小織:今もそう思う瞬間(とき)があって…


世那:私もそうだ。


小織:あなたのこの手に…ずっと触れたかった。


世那:後悔しない?


小織:ええ…。


世那:あなたを壊してしまうかもしれないよ。


小織:壊して下さい。
      私を、過去を、すべてを…もう何も残さないで。


世那:そう望むなら…あの時の痛みごと。


小織:痛みも傷も、今なら、怖くない。
   あの夜の寒さも、もう感じない…


世那:…小織。

 

【間】

 

小織:この手の冷たさも、少しずつ溶けていく。
   何もかもが崩れて、混ざり合っていくような気がする。


世那:怖い?


小織:いいえ…どこまでも壊れて堕ちて行ったとしても後悔はないわ。


世那:あの夜に戻るわけじゃない。もう何も戻らない。


小織:今の私たちが、このまま消えてもいいのなら…
   温もりも、冷たさも、孤独も、全部。


世那:小織…


小織:(彼の胸に身を預けながら)私のすべてを壊して。
   何もかもが壊れてしまえばいい。
   そうすれば…私たちはやっと自由になれる。


世那:……お父さんを返して。


小織:っ……。


世那:出来ないなら……


小織:あれは事故でしょ。


世那:そうじゃなかったら?


小織:……え?


世那:(彼女を強く抱きしめ、耳元で囁く)壊そう、すべてを。
   小織と私、何もかもが消えてしまうその瞬間まで、絶対に離さない。


小織:待って…


世那:(悲しげに笑って)…この話の続きは、またにしましょう。


小織:ひどい人ね。


世那:今日は…帰るよ。


小織:(一人になった店内に声が響く)お父さんを返して。出来ないなら…………殺して。


世那:(M)逢魔が時は出会ってはいけない者同士が出会ってしまうのだという。
   あの日に嗅いだ彼女の香りを私は覚えている……まるで媚薬のようなあの香りを。

 

 

【祇園 Bar RINNE】

奏多:(M)如月小織という女について覚えているのは、祇園でも有名な小料理屋の娘だということ。
   小学生の時はあまり目立つような子ではなく、彼女の三人の兄達がそれぞれ印象的で
   「その妹」はいつも彼らの後ろでなりを潜めていたこと。
   何に反抗したかったのか、可愛らしい顔に似気無い(にげない)派手な髪色と化粧、
   着崩されたセーラー服で周りを寄せ付けず、いつも独りで居た中学時代のこと。
   それくらいだ。

   そんな彼女に幼なじみの世那が惹かれていたのも知っていた。
   それが恋なのか、はたまた愛なのか、それとは全く違う感情なのか私にはわからなかったけれど、世那はいつも彼女を見ていた。
   彼女も世那を見ていた。
   お互いを意識しているのに、お互いを空気のように扱っている事に私は酷く違和感を感じていた。
   そして、ふたりの間に何かあるのだろうと思ってはいても、ふたりの関係に自分が巻き込まれる事はないのだと確信していた。
   今ここで『こう』なるまでは……


小織:テキーラ、ショットで。


奏多:強いんだな。


小織:そうね。入江さんは?次どうする?


奏多:私はこのままワインおかわりするよ。


小織:ね、ならボトルおろさない?一緒に空けよ。


奏多:いいけど…大丈夫なの?


小織:身体なら問題なし。子供たちにも許可とってるから平気。


奏多:お子さんいくつなの?


小織:一番上からハタチ、18、14。


奏多:10代で産んだんだ。


小織:そう、高校の卒業式の時にちょうど安定期に入ってたはず。


奏多:ご主人は?


小織:二個上の先輩。


奏多:そうじゃなくて。


小織:ああ…二年くらい前からお互いのプライベートには干渉しなくなった。


奏多:そう。


小織:…あれ、もしかして入江さん結婚してた?
   ごめん、こんな時間にこんな所で会うからてっきり独身だと思って付き合わせちゃったけど。


奏多:大丈夫、大丈夫。結婚はしてるけど、今日は帰りたくないんだ。


小織:なんで?


奏多:……金曜だから。


小織:金曜?


奏多:……。


小織:女でも居るの?旦那さん。


奏多:……男。


小織:え?


奏多:うちの旦那の相手、男なんだよね。


小織:ごめん、なんて言ったらいいか…。


奏多:だよな。わかる。


小織:……。


奏多:そんな顔しないで。私も遊んでるしお互い様だから。


小織:そうなんだ。


奏多:うん。


小織:彼氏のとこ行かないの?


奏多:うん…。


小織:訳あり?


奏多:かもね。


小織:まあ、それはお互い様か。


奏多:色々あるよ。これだけ生きてきたら。


小織:(テキーラを煽って)テキーラおかわり2つ。
   ね、とりあえずワインリストもらう前にこれ飲んで清めよ。


奏多:清めるって、は?


小織:大丈夫、ここのテキーラは物がいいから悪酔いしないって。


奏多:え、あ…うん。


小織:ほら、乾杯。


奏多:(笑って)如月さんて面白い人だね。


小織:馬鹿っぽいでしょ?昔からだよ。


奏多:違う。色んな顔を持ってるんだなって思ってさ。


小織:女はみんな女優だからね。それぞれの場面に合わせて演じてるのよ。


奏多:あれ……それ、昔、誰かから聞いたな。


小織:そう?(ワインリストを差し出して)ね、どのワインにする?


奏多:強いね。


小織:何回言うの。ほら、早く選んで。


奏多:んー…いつもお任せで頼んでるからなあ。


小織:なら今日もお任せにしよっか。シュリちゃーん、ワイン、ボトルで頂戴?銘柄はお任せで。


奏多:よく来るの?ここ。


小織:うん、元々、兄がここの立ち上げに関わっててさ。


奏多:そうなんだ。


小織:二人とも隠してないから言うけど、兄の元カノなんだよね、シュリちゃん。


奏多:え、本当に?どれの?


小織:一番上。


奏多:そうなんだ。あ、人様のお兄さん「どれ」呼ばわりしてごめんね?なんか勢い余ったわ。


小織:あはは、いいよ、そんなの気にしない。
   入江さんもここの常連なの?


奏多:妹がシュリちゃんの同級生で今でも仲良くしててさ。
   あの子と飲む時は大抵ここだから、それで顔覚えてもらってる感じ。


小織:世間って狭いよねえ。


奏多:ね、本当にそう思う。


小織:……私さ。


奏多:ん?


小織:私、子供の頃…本当に良いことなくて。
   暗黒時代ってやつ?だから、ずっと記憶を封印してたんだよね。


奏多:そっか。


小織:でも最近、思い出す事が多くて。


奏多:なるほど。


小織:入江さんてさ葛城君と仲良かったじゃない?


奏多:ああ、腐れ縁だよ。


小織:今も仲良いの?


奏多:……。


小織:ねぇ?


奏多:(笑って)これって、偶然?それとも狙ってた?


小織:何が…


奏多:今夜のこの再会ってさ、なんか根回しとかしたのかなって。
   シュリちゃんの事、使った?


小織:違う。


奏多:そ?


小織:双子の兄を使った。


奏多:ああ、小太郎君か。さっきまでいたもんね。
   そんな素振り全然見せなかったのに…(笑って)狸だなあ。


小織:会いたかったの……どうしても。


奏多:私に?


小織:そう。


奏多:そっか。(ワインをそそいで)ボトル一本で足りる?


小織:難しいかも。


奏多:あはは、だろうな。


小織:ごめん。


奏多:いいよ。言ったでしょ?今夜は帰りたくないの。
   だから、とことんつき合うよ。


小織:入江さんって、面倒見良いんだね。


奏多:やめてよ、それ。全然褒め言葉じゃないから。


小織:そう?


奏多:そうだよ。で?世那のなにが知りたいの?


小織:…なにが知りたいんだろ。


奏多:(笑って)いいよ、ゆっくりで。無理にキレイな言葉で取り繕わなくてもいいしさ。


小織:…ねぇ。


奏多:ん?


小織:女にしとくの勿体無いって言われない?


奏多:なにそれ。ほら、ふざけてないで考えてよ。何が知りたいか。
   あー…ほら、世那の母親の事とかさ?


小織:…そりゃ知ってるわよね。


奏多:ニュースにもなったからね。
   よく如月さんのお父さんの名前が出なかったなとは思ったけど…あれも世那ん家が圧力かけたんだろ。


小織:うん……こっちで全部やるから何も喋るなって、お金も渡されたんじゃないかな。


奏多:そう。


小織:あの頃、父はいつも家に居なくて…店も母さんと上の兄さんで切り盛りしてる状況だったの。
   だから、葛城の人たちに事故のことで連絡がきた時もみんなどこか冷めた目をしてた。
   入江さんって…本当の所、どこまで知ってるの?


奏多:どこまでって…世那の母親が事故をおこしたって事と、その車に如月さんのお父さんが乗ってたらしいって事。
   あと2人は不貞な関係だったってことくらいかな。
   大して他のみんなと変わんないよ。


小織:事故の原因については?


奏多:比叡山の山中越(やまなかごえ)でスピード出しすぎてカーブを曲がり切れずにって…そうじゃないの?


小織:そうじゃなかったら…?って、あの人が言ったの。
   もしもあれが事故じゃなかったら……


奏多:なに…?無理心中とか?いや、だとしても二人の問題であって―――


小織:殺してって…言ったの。


奏多:え…?


小織:私があの人に…殺してって言ったのよ。


(突然、奏多のスマホが鳴る)


奏多:っ…!ごめん、いつもはマナーモードにしてるのに…なんだよ、こんな夜中に…ちょっと待ってね。

  (電話に出て)はい、もしもし……ええ、そうです。
  はい……はい……なるほど、はい。……わかりました……ええ、失礼します。


小織:大丈夫…?


奏多:うん……参ったな。


小織:どうしたの?


奏多:世那が比叡山の山中越(やまなかごえ)で事故にあったって。


小織:っ…

 

 


【京阪三条近郊 Hair Salon&Spa-ADEYA-】
(閉店後カット練習をするルイ)

ルイ:……。


律月:あれ、まだ残ってたの?


ルイ:明日、チェックだから。


律月:そっか。


ルイ:おまえは?


律月:カットモデルの撮影あるから準備しときたくて。


ルイ:へぇ。


律月:あれ、レフ板ここにあるって聞いてたのに…(部屋の中を探し回る)


ルイ:……なぁ。


律月:んー?


ルイ:……手に入りそうになったら途端に不安になるのって何でだと思う。


律月:蛙化女子?


ルイ:ちげーよ。


律月:ふーん。


ルイ:嫌悪感とか…そういうのじゃない。嬉しいのに…なんか変な感じ。


律月:ミズ・ヘミングウェイとなんかあったんだ。


ルイ:いつもと違うことが続いて、距離がこう……近くなったっていうか。


律月:案外女々しいんだね。


ルイ:好感度下がったかよ。


律月:マイナス3000ポイント。


ルイ:あっそ。


律月:自爆するくらいなら別れた方がいいと思うけど。


ルイ:…別れるつもりはない。


律月:あの人も離婚するつもりないと思うよ。


ルイ:……。


律月:生ぬるい関係がズルズルと続きそう。


ルイ:…なんで?


律月:パートナーを簡単に捨てる人もいれば、そうじゃない人もいるんだよ。


ルイ:……。


律月:まあ……そもそも彼女が離婚したとして、君に責任が取れるわけないんだから。
   今の関係を『ほど良く』楽しめばいいんじゃない?


ルイ:責任ってなんだよ。出会った頃にはもう壊れてた―――


律月:そう思いたいだけでしょ。


ルイ:……。


律月:300万。


ルイ:は?


律月:払えるの?300万即金で。


ルイ:なんだよ急に。


律月:ミズ・ヘミングウェイの旦那に訴えられたら、それくらいかかるよって話。


ルイ:……。


律月:スタイリストにもなれずに燻ってるのに無理な話だよね。


ルイ:……。


律月:だから言ったでしょ?生産性ないよって。


ルイ:払うよ。…いくらでも払う。


律月:あっそ。


ルイ:本気なんだ。


律月:はぁ……萎える。必死だな。でも結局、君は誰かに「認められたい」か「縋られたい」だけ。
   守る?支える?笑わせないで。


ルイ:俺は本気で…っ
 

律月:本気?今の君の「本気」なんか、露天の叩き売りみたいに価値がない。


ルイ:(表情を歪めて黙る)……。


律月:思い出してよ…あの日の事故のこと。


ルイ:……は?


律月:観客席で、ボクは泣くことしかできなかった。
   無力で、ただただ滑稽だった。
   今の君…あの時と一緒だよ。


(律月、踵を返し退場)


ルイ:(掠れた声で、絞り出すように)あの時と一緒…それでも…俺は……


(深く息を吐き、肩を落としながら視線を逸らす)


律月:(M)父はオートレースが好きだった。
   母に内緒だという誘いに辟易としながらも、観客席からでも圧倒されるオートレースの熱量や張り詰めた空気に惹かれていた。

   「蜂須賀って子、律月と同じ歳だね」

   そう言われてなんとなく彼を目で追うのが癖になり、いつの間にか彼の姿を探すようになっていた。


ルイ:(M)忘れもしないあの日…俺はバイクのハンドルを握りしめ、サーキットを疾走する。
   誰もが勝利のみを求め牽制しあう中、前方で何かが起こった。
   俺の視界に突如現れたバイクの横転。


律月:(M)彼の反応は即座だったけれど、避けようがなかった。
   ボクの心は凍りつき、息が止まるかと思った。
   手を口に当て、絶叫を抑えつける。
   冷静になろうとする思考に反して涙が溢れ出し、その瞬間、何もできない自分自身に絶望した。


ルイ:(M)激しい衝撃と共に地面に叩きつけられ、意識が遠のいていく。
   俺はバイクから引き剥がされ、地面に転がる最中、レースの終わりを予感した。


律月:本当にボクは……なんて、無力なんだ。

 

 

【間】

(回想 一年半前)
ルイ:(M)夕日が公園を温かく照らし、緑の中にオレンジ色の光が差し込んでいる。
   その香りに導かれるように目を向けると、一人の女性がベンチに座っている。
   絹糸のような髪が夕日に照らされ、風に揺れていた。

   こんなに綺麗な後ろ姿を今まで見たことがなかった。


ルイ:(思わず声をかける)あの…すみません。


奏多:(驚いた表情で)え…?


ルイ:(M)ゆっくりと振り向いた彼女の瞳は涙に濡れ、ふくよかな唇は微かに震えていた。


奏多:なんですか…?


ルイ:あ、すみません…突然声をかけて。
   実は僕、美容師見習いでカットモデルを探しているんです。
   もしよかったら、モデルになってもらえませんか?


(奏多は一瞬戸惑いながらも、ルイの真剣な眼差しに引き込まれる。)


奏多:カットモデル…?


ルイ:はい…少しでも気分転換になればと思って。


奏多:え…嫌だけど。


ルイ:(拍子抜けしたように)え…?


奏多:切るつもりないし、腕前もわからないような若造に切られるのは嫌だって言ってるの。


ルイ:若造って…


奏多:若造に間違いないよね?


ルイ:間違いないっすね。


奏多:じゃあ、そういう事で。


ルイ:なんで泣いてたんですか?


奏多:若造な上にデリカシーもないわけ?


ルイ:泣いてる人、放っておく方がデリカシーないでしょ。


奏多:放置して頂いて結構です。


ルイ:嫌です。


奏多:は?


ルイ:(真剣な表情で)誰かが泣いているのを見て見ぬふりなんてできないんで。
   特に、お姉さんみたいな人が泣いてるならなおさら放っておけない。


奏多:馬鹿にしてる?こんなおばさん捕まえて。


ルイ:馬鹿にしてないし、お姉さんは絶対おばさんじゃないっすよ。


奏多:(ため息をついて)あんた…しつこいって言われない?


ルイ:(微笑んで)初めて言われた。でも、お姉さんにならどう言われてもいいよ。


奏多:面白い子だな。だけど、本当に切るつもりないよ。


ルイ:いいっすよ。その代わり飲みに行きません?


奏多:展開、早いな。


ルイ:じゃあここで飲むのは?あそこのコンビニで酒買って来るから。


奏多:やっぱりしつこい。


ルイ:どう言われてもこの機会逃すつもりないんで。


奏多:…あんた、その顔に産んでくれた親に感謝しろよ。


ルイ:へ?


奏多:憎たらしいくらい私好み。


ルイ:マジで?普通に嬉しい。


奏多:その顔を肴に飲むのもありかな?


ルイ:やった。じゃあすぐ買って来るからちょっと待ってて。


奏多:ばーか。アラフォーは公園でなんて飲みません。


ルイ:え…なら…


奏多:私の行きつけの店でいいならそこでどう?


ルイ:もちろん。


奏多:じゃあ、行こっか。


ルイ:ねえ。


奏多:ん?


ルイ:俺も一目見た時からめちゃくちゃ好みだなって思ってた。


奏多:(笑って)バカだな。


ルイ:バカじゃないでしょ!


奏多:はいはい。ほら、さっさと行くよ。

 

(回想終わり)

 

ルイ:(M)奏多さんと出逢って一年半…最初から惹かれてた俺が、彼女に本気になるのに時間はかからなかった。
   半年程、飲み友達を続けて、その後、店に来てくれるようになった。
   いくら口説いても笑って流されていたのに、あの日…あの金曜の夜、俺たちの関係は変わった。

 


(ある日の金曜の夜、回想) 
奏多:……。


ルイ:どうしたんですか?


奏多:今日、すごい雨だよな。


ルイ:なんかあった?


奏多:蜂須賀君って嫌いなモノある?


ルイ:なに、急に…


奏多:私さ、大嫌いなモノがあるの。


ルイ:四条大橋?


奏多:え…


ルイ:あたり?


奏多:あたり…だけど、なんで?


ルイ:祇園に行く時、いつも三条大橋渡るの気づいてなかった?
   遠回りになるけど「こっちの景色が好きだ」っていつも。
   俺の働いてる店にすんなり来てくれたのも三条大橋の近くだからだって。


奏多:それでなんで四条大橋が嫌いだってわかんのよ。


ルイ:気づいてないのかもしれないけど…


奏多:なに…?


ルイ:奏多さん、いつも睨みつけてるんだよね。
   あの四条大橋をさ…。


奏多:…そっか。


ルイ:うん。


奏多:あの橋から旦那が飛び降りようとしたことがあってね。


ルイ:……。


奏多:結婚前に大喧嘩して…彼、飛び出して行っちゃって。
   やっと見つけたと思ったあの時、今にも橋から飛び降りようとしてて…それをあの子が助けたの。


ルイ:あの子?


奏多:旦那の不倫相手。


ルイ:そっか…


奏多:今、ふたりがうちのマンションにいる。


ルイ:え?


奏多:(深くため息をついて)さすがにベッドのシーツは捨てよ。


ルイ:いや…まじかよ。


奏多:清掃にも入ってもらおうかなあ。バスルーム使ってるだろうし。


ルイ:ねえ。


奏多:ん?


ルイ:なんでそんな平気そうな顔してるの?


奏多:…平気じゃない。


ルイ:うん…


奏多:平気なわけない。


ルイ:……奏多さん、今夜はとことん付き合うから。
   たまには吐き出しなよ。


奏多:明日…仕事あるのにいいの?


ルイ:若造だから大丈夫。


奏多:(笑って)本当、その顔に産んでくれた親に感謝しなよ?


ルイ:え?


奏多:イイ男じゃなかったら殴ってる。


ルイ:あはは。

 

 

 

(回想終わり)

奏多:なぁ?髪…切ってよ。


ルイ:(M)そう言い放った彼女の声は、鏡越しに映るその眼差しのように何かを覚悟していた。


奏多:急にごめん。


ルイ:ううん…あ、どれくらい切りますか?随分、伸びてますけど―――


奏多:バッサリ切ってくれていいよ。やりたい髪型があるなら実験して?


ルイ:実験台になんかしないよ。


奏多:ごめん、言い方が悪かったな。


ルイ:……なんかあったんですか?
   

奏多:……。


ルイ:ねえ、奏多さん。


奏多:…旦那の母が亡くなったんだ。


ルイ:え?


奏多:四十九日は終わった。


ルイ:……。


奏多:それで…お義母さんの事が落ち着いたら離婚しようかって話になった。


ルイ:そうか。奏多さん、俺さ…


奏多:待って。


ルイ:え?


奏多:続きがある。


ルイ:……。


奏多:…離婚の話を切り出してから旦那がどんどん情緒不安定になってね。


ルイ:うん。


奏多:放っておけるレベルじゃないなと思って主治医の先生にも相談してたんだけど…。
   先週の金曜、自殺未遂っていうか、自殺幇助されかけたって言うか…本当にすごく複雑なんだけどさ。


ルイ:は?


奏多:旦那の愛人が旦那の首しめてる所に遭遇した。


ルイ:なにそれ…


奏多:私さ……それ見て、自分でも驚いたんだけど…


ルイ:……


奏多:嫌だなって…


ルイ:え……


奏多:死んで欲しくない…ううん、そもそもこの人を殺すなら私だろって。


ルイ:は?どういうこと?


奏多:歪んでるなんて百も承知。


ルイ:……。


奏多:私ね…あの人のこと、捨てない。
   私のことも捨てさせない。


ルイ:不倫相手は?


奏多:さあ?


ルイ:別れてないの?


奏多:どっちでもいい。


ルイ:それでも…離婚しないってこと?


奏多:うん。


ルイ:嘘でしょ?


奏多:本当。


ルイ:…そうか。


奏多:安心した?


ルイ:なんでそんなこと言うの。


奏多:そんな顔してるから。


ルイ:安心なんて…


奏多:ごめん。おばさんのワガママに最後まで付き合わせて悪いんだけど。


ルイ:奏多さんはおばさんじゃ(ない)―――


奏多:もうこれ切りにしよう。だから最後にこの髪…好きにして。


ルイ:切り刻まれてもいいってこと?


奏多:そうしたいなら。


ルイ:怪我させるかもよ?


奏多:好きにしていいよ。


ルイ:俺…諦めきれないよ。


奏多:ごめん。その気持ちに寄り添ってはやれない。
   だから……


ルイ:だから……?


奏多:私をずっと…赦さないで。

 

【間】

 

ルイ:(M)逢魔が時は出会ってはいけない者同士が出会ってしまうのだという。
   あの日、ふわりと香った香気に惹かれて彼女に声をかけた事に後悔はない。
   けれど……こんな終わりが来るくらいなら俺は…


律月:大丈夫?


ルイ:……笑えよ。


律月:なんで?


ルイ:振られて…


律月:泥に這いつくばって、それでも諦めきれない俺を?


ルイ:なんだよそれ…

律月:笑わないよ。だって、そういう君をボクはずっと見てきた。
   無鉄砲に突っ走って、派手に転んで、でも必ず立ち上がる。
   ……昔から、変わってない。


ルイ:知ってたんだな。俺がオートレーサーだった頃のこと。


律月:父親によく連れていかれてたんだ。君が風を切って走る姿、今でも思い出せるよ。


ルイ:あの事故の時も。


律月:ああ、見てた。


ルイ:(深く息を吐きながら)……情けないとこばっかり見られてるわけだ。


律月:(静かに歩み寄り、机に肘をつく)情けなくなんかないよ。
   ……ただ、人間らしいだけ。


ルイ:“人間らしい”か…おまえの口からそんな言葉が出るなんて。


律月:そ?ちなみにボクだって、人間だよ。
   こうして同い歳で、隣に立ってる。
  (間合いが狭まり、耳元に唇が近づく)生きてるって素晴らしいよね。


ルイ:(視線を逸らして)……近いな。


律月:(口角を上げて)嫌なら離れるよ?
   でも…今は誰かにいて欲しいだろ?


ルイ:流されるのは好きじゃない。


律月:バカだな。押し倒したりなんてしないよ。


ルイ:からかってるんだってわかってるよ。


律月:からかったのはその通りだけどさ。
   こういう時って、昔のことまで思い出してへこんだりするじゃない?
   ボクはそうなんだけど、君はどう?


ルイ:まあな…あの事故から、俺はなんにも変わってないって痛感してる。
   …あの時あんなにも自分を許せなかったのに。


律月:…確かに酷い事故だったね。


ルイ:後輩も巻き込んで、未来まで奪って。
   「走る資格なんてない」って何度も思って…だから…


律月:だから、オートをやめた?


ルイ:ああ。でも……やめても、走るのはやめられなかった。
   眠っても夢にうなされて、バイクのエンジン音が耳から離れなかった。
   逃げてるつもりが、結局走ることからは逃げられなかった。


律月:(目を伏せて)……じゃあ、どうやって立ち直ったの。


ルイ:……“走る”の代わりに、“人を変える”って道を見つけたんだ。
   美容師になって、目の前の客を鏡越しに変えていく。
   たった数センチ髪を切るだけで、表情が変わる。
   誰かの「明日」を軽くできるなら、まだ俺にもできることがあるって。今は走りたくなったらカット練習してる。


律月:それが、君の再起。


ルイ:皮肉だよな。
   自分のせいで誰かの未来を壊した俺がさ。


律月:(ゆるく笑って)皮肉じゃない。
   君はやっぱり、走り続けてるんだよ。
   今日の君はかなり高得点だよ。
   プラス30000ポイント。


ルイ:喜んでいいのか、わかんねーよ。


律月:喜んでよ。それにやっぱり君はボクの最高のライバルだ。


ルイ:ライバル、ね。転げ落ちてばかりの負け犬の俺が?


律月:転げ落ちても走り続ける奴を、ただの負け犬とは言わない。
   それに、勝ちを狙うときの目。あれは反則だよ。
   悔しくて組み敷きたくなる感じ?


ルイ:おまえって人を翻弄する言葉しか選ばないのな。


律月:(口元に笑みを浮かべて)だって、その方が面白いだろ?
   それにきっと君も退屈しないはず。


ルイ:(笑って)なんだよ、それ。


律月:まぁ、今夜はとことん聞いてあげるよ。


ルイ:…ああ。


律月:それに…無理に忘れなくていいんだからさ。
   とりあえず君は前向いて走ってなよ。


ルイ:そうだな…(柔らかく微笑んで)ありがとうな、律月。おまえがいてくれて本当に良かったよ。


律月:え…いや、別に。


ルイ:なに、おまえ照れてんの?


律月:は?そんなんじゃないし。


ルイ:可愛い所あるんだな。


律月:な……


ルイ:(意地悪そうに笑って)プラス10000ポイント。


律月:うるさいな!やめろよ!


ルイ:あははは。

 


【間】

 


世那:再会しなければ良かったと何度も思った。
   本当に…この街は狭い……


奏多:死にかけた奴が最初に言う言葉がそれかよ。


世那:(深いため息をついて)怪我人には優しくしてくれよ。


奏多:面会謝絶って聞いた時は肝が冷えたっての。なあ、如月さん。


小織:うん…


奏多:おまえがボロボロだから如月さん真っ青じゃん。どう責任取るんだよ。


世那:そうだな。


奏多:答えになってねえっての。


世那:入江、君…元気だね。


奏多:うん。離婚届けも無事出せたしスッキリ。
   お義母さんがあの人にしっかり遺してくれたおかげで、私も安心して手放せた。


小織:そっか…「良かったね」でいいんだよね?


奏多:もちろん。


世那:お祝いしないとな。


奏多:退院したら盛大にやろ。


小織:だからバッサリ切ったの?ロング似合ってたのに。


奏多:うん。最後の選別にね。


小織:最後?


世那:喉笛掻っ切られなくて良かったな。


奏多:覚悟はしてたよ。


世那:…結局、君の鎖を断ち切ってくれたのはお義母さんだったか。


奏多:この世では誰もが苦しみを味わう。そして、その苦しみの場所から強くなれる者もいる。


小織:それ、ヘミングウェイ?


奏多:そう、お義母さんが好きだった言葉…本当に最期まであの人にはお世話になったよ。
   というわけで、私の話はおしまい。
   また見舞いに来るからさ。この後はふたりで腹割って話せよ。


世那:入江…君は本当に歯に衣着せないな。自分がすっきりしたからって、まったく。


奏多:まあ、そう言うなって。じゃあそろそろ行くわ。
   またね如月さん。


世那:入江。


奏多:ん?


世那:なにかあったら連絡しろよ?


奏多:(笑って)おまえがな。

 


【間】

 


世那:…君にひとつ、ずっと隠していたことがある。


小織:隠して……?


世那:(目を開けて天井を見つめる)あの夜。君の父と、母が山に向かった直前。
   私は…母に言ってしまったんだ。


小織:(息を呑む)……なにを?


世那:(苦く笑う)「いっそ死ねよ」って。
   吐き捨てるように。
   ……母が穏やかな顔をしながら勝手なことばかり言うのが腹立たしくて、父を…私を裏切りながらも幸せそうなのが本当に憎くて…そう強く感じた瞬間、言葉が出てしまった。


小織:その後、あの事故が?


世那:ああ。もしかすると、あれが最後の一押しになったかもしれない。


小織:そんな……。


世那:私があんなことを言わなければ、こんな結末にはならなかったんだろうか。
   それとも…母は最初からあの道を選んでいたんだろうか。


小織:……。


世那:母はいつも炎のような人だった。
   燃えれば消える運命にあると知りながら、誰よりも激しく、誰よりも眩しく生きた。
   私はその炎が怖かった。
   …すべてを燃やし尽くす炎。
   けれど、燃えた後の灰には、新しい何かが宿るという。
   黙っていれば、全て曖昧になると信じてた。
   でも曖昧なままでは、ずっと胸を締め付けられる。
   君が「壊したい」と言ったとき、私はあの言葉を思い出したんだ。
   壊したのは私だ。母も、君の父も……私のこの舌。


小織:違う。あれは、あなたひとりの罪じゃない。
   あなたがそう思うのは、私のせい…あの日“返して”なんて言わなければ……。


世那:君のせいじゃない。
   君は、ただ願っただけだ。
   願いは罪ではないよ。


小織:…なら、今度は“生きて”と願う。

世那:……っ

小織:生きて……願いは罪ではないんでしょ?

世那:君は強いね。

小織:そんなことない。そうありたいと思うだけ。

世那:罪を言葉にしたとき、人は初めて赦しに触れる。
   母に放った言葉は呪いのように私の心を縛り付けた。
   けれど今、その呪いがほどけていくように感じるよ。

 

 

 

 


ルイ:(M)ふわりと甘い香りがした先にある絹糸のような髪と、凜然とした後ろ姿が眩しくて声をかけた。
   振り向いたその人はとても綺麗で、その瞳は涙に濡れ、ふくよかな唇はカタカタと震えていた。


奏多:(M)あの時、あなたの目に映っていた私は…壊れる寸前の女だった。
   でも今は違う。震える時が何度訪れたとしても、私は選ぶ。
   前を向いて歩くことを。


世那:(M)あの人によく似た瞳の彼女は、彼と同じアンバーウッドの香りを纏っていた。
   掴まれた腕に感じた温度は酷く冷たく、私の胸の奥は鈍く痛み、過去のあらゆる醜穢(しゅうえ)がこの身に纒わり付く。


小織:(M)そう…私は何度も絡め取られたふりをしながら、あなたを傷つけた。
   でも、もう…この澱(おり)をあなた押し付けたりしない。
   私は私の手で…境界を渡る。


律月:(M) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
   沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
   おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。


奏多:(M)無常でいい。
   春の夢で終わるなら、せめてこの夜は…私が選んだ香りで閉じたい。


律月:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。


小織:(M)それでいい。
   信じられない街で、それでも生きると決めた私たちを…誰も裁けない。


律月:(M)表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。


ルイ:(M)この街の、あの逢魔が時から俺は──


世那:(M)私は彼女から……目が離せない。


小織:(M)なら、見届けて。ただ、生きて、最後まで。


奏多:(M)ずっと私を……赦さないで。

 

 

 



 

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