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 聲無秘抄(せいむひしょう)

(祇園、初夏の夜明け。しとしとと降る細雨。濡れた石畳。灯りの消えかけた赤提灯)

​かの江(かのえ)

文筆家

祇園の石畳に残る“夜の匂い”を嗅ぎ分けながら生きる女流作家。

「女が筆を握る」ことが罪とされた時代に生まれ、 言葉と存在の狭間で自分自身を削り続けてきた。

誰かを描けば誰かを裏切る。 愛を書けば嘲られる。

沈黙は、彼女が世界と折り合うための最後の鎧だった。

過去に、弟の“名を呼ばなかった”罪を抱えている。

その後悔は彼女の“声”を奪い、作品世界を形作る影になった。

初夏の雨、湖畔の舟着き場で現れた少年によって、 封じられた記憶と“呼ばれなかった名”がゆっくりと解かれていく。

彼女の旅は、赦しを得るためではなく、自分自身を取り戻すための航海である。

 

宵音(よいね)

白い和服をまとい、湖の霧に溶けるように現れた謎の少年。

最初の呼び名は「宵音」。 しかし彼は、かの江に静かに告げる。

「姉さんが名前を呼ばなかったから、 “彼になれなかった僕”がここにいる」

かつて“弟だった誰か”でもあり、 “弟になれなかった存在”でもある。

人ではなく、名前を与えられなかった想念。 それでも“待っていた”。

姉が、名を呼んでくれる瞬間を。

かの江:(M)祇園という街は、夜の匂いがする。

    桜の咲くころも、紫陽花の季(とき)も、この石畳には、必ず夜が残っていた。

    それは、花街の音でも、誰かの足音でもない。
    もっと深い、人の“想い”の残り香。

    わたしはそれを嗅ぎ分けるたびに、いつも“声を封じる”。

    女が筆を握ることは、いつだって罪に似ていた。
    誰かを描けば、誰かを裏切る。
    愛を綴れば、女の浅はかさと嘲られ、忘れようとすれば、指先が勝手に記憶を綴った。

    私は、“女であること”を剥がさなければ、物語を書けなかった。
    だから──弟の名も、愛も、声も……剥いだ。
    書くことだけが、私の本地だったから。

    あの朝も、そうだった。
    名を呼びかけようとした喉に、なにかが入り込んできて、私は言葉を飲みこんだ。

    ……違う。
    飲みこんだのは、“あなたを弟と呼ぶための理性”だった。

 

(ゆっくりと画が変わる。祇園の端に名も無き湖畔。石畳の先に、誰もいない舟着き場)

(かの江、傘をささずにひとりで立っている)

 

かの江:まだあったのね。
    何も、変わらずに。

    ……変わったのは、私だけ。

 

かの江:(M)書くことでしか、わたしは自分を証せなかった。
    女が“声をあげる”ということは、筆の先に痛みを孕むことだった。
    誰にも読まれず、誰にも知られず、それでも綴らずにはいられない。
    まるで──生きた証を、宙に投げ続けるように。

    けれど、一番読んでほしい人にこそ……私は筆を向けなかった。
    怖かったから。
    書いた途端、それが“現実”になってしまいそうで。


(足音が消えるように、ぬかるみに吸い込まれる)

(そのとき──湖畔の奥、白く靄(もや)がかかった桟橋に、ひとりの少年が立っている)

 

かの江:……誰?

 

(その少年は、白い和服を着て、肩までの髪を静かに揺らしながら、こちらを見ている)

 

宵音:おはよう、姉さん。

 

かの江:……っ!?

 

宵音:やっと、来てくれたんだね。

 

かの江:あの、どうして……“姉さん”なんて……
    私はあなたを、知らな──

 

宵音:ううん、あなたは知ってるよ。
   でもまだ、名前を呼んでくれないだけ。

 

(かの江、言葉を失い、その場に立ち尽くす)

 

かの江:(M)夏の雨が、胸に染みた。
    それは冷たさではなく、
    忘れていた“名の重さ”だった。

 


(タイトルコール)
宵音:祇園×エンヴィ「文豪メランコリア」

 

かの江:聲無秘抄(せいむひしょう)

 

宵音:どうしたの?すっかり黙ってしまって。

 

かの江:あなた……なぜ私を“姉”と?
    どうして……私を知っているの?

 

宵音:僕はずっと、ここにいる。
   この湖が、“名を呼ばれなかった者”の舟着き場だから。

 

かの江:…舟着き場。

 

宵音:ここにはね、ひとつだけ舟があるんだ。
   乗る者がいないときも、名を呼ばれぬまま、ずっと揺れてる。

   ──君が、あの朝、僕を呼ばなかったから。

 

(かの江の傘の柄を握る手が震える)

 

かの江:まさか……本当に…、嘘……あなた……なの……?

 

宵音:それは違う。
   姉さんが名前を呼ばなかったから、“彼になれなかった僕”が、ここにいる。

 

かの江:(M)胸が裂けた。
    懐かしさと、悔いと、名残と、
    そして、ようやく辿り着いた「声」が、
    わたしの喉から、涙のように落ちていった。


宵音:姉さん、僕の舟を目覚めさせる名を…“今の僕”に名前をください。

  (かの江はゆっくりと顔を上げ、
   夜明けの薄紅に染まる湖と少年の姿を見つめながら)

 

かの江:……宵音。
    名も無き夜の湖でたったひとつ、残っていたあなたの声。
    今夜から──あなたは“宵音”。

 

宵音:(小さく笑って)気に入ったよ、姉さん。

 

かの江:(M)思い出そうとするたびに、胸の奥がきしむのは“忘れよう”とした証拠だ。

    あの朝、私は確かに見ていた。
    雨の中で、ひとり舟に乗る弟を。
    傘も声も与えずに……。

 

(過去回想)
 

宵音:姉さんは、来てくれないの?

 

かの江:行けない。
    声をかけたら、全部が壊れてしまう。
    “文士になりたい”なんて、ただのわがままだって…。
    誰にも認められないとしても、私はひとりでやると決めたから。

 

宵音:そう……。

 

(舟がゆっくりと岸を離れる。雨が降る。
 弟は傘を差さず、まっすぐにこちらを見つめ続けている)

かの江:……誰かを守る手なんて、出せなかった。
(回想終わり)

 

かの江:私は……私は、呼ばなかった。
    名を……声を……“姉”としての最後の灯りを、あなたに手向けなかった。

 

宵音:うん、知ってるよ。
   でも、もう責めてない。
   だって僕は、“呼ばれなかったからここに残れた”。

 

の江:残る……ことが、救いだったの?

 

宵音:姉さんが、僕のことを“忘れてしまった”ら、僕はこの湖からも消えてた。
   誰にも見えず、誰にも残らず──“沈黙”という水底で溺れてた。

   でも姉さんは来てくれた。
   思い出してくれた。

 

かの江:……怖かった。
    思い出すのも…あなたに会うのも、
    赦されることなんてないと思ってた。

 

宵音:赦すために、僕はここにいるんじゃないよ。
   “名前をもらう”ために、僕はあなたを待ってたんだ。

 

(かの江、顔を伏せる。肩が震える。風が湖を渡る)

 

かの江:(M)「待っていた」…その一言がいちばん深く、心の奥に落ちた。
    待ってくれていた
    誰にも求められていないと思っていた私が、名前を呼ぶというたったひとつのことで、誰かの“存在の証明”になれるなんて。


(宵音が、そっと手を差し出す)

 

宵音:……姉さん。
   舟に、乗ってみる?

(かの江はその手を見つめる)

 

かの江:乗ったら、私は戻ってこられない気がする。

宵音:そうだね。…この舟は、“終わらせる”舟だから。

 

かの江:……それでも、見てみたい。
    あなたと一緒に、見送れなかった朝を。

 

(ゆっくりと、かの江は宵音の手を取る)
(二人は並んで、静かに舟へと向かう)

 

かの江:(M)時は戻らない。
    でも、“名を呼ぶ”ことで、
    止まっていた時がまた歩き出すことを私はこの湖で知った。

 

(宵の湖上。ふたりは舟に乗っている。舟は音もなく、水の上を滑っていく。霧が濃く、世界が閉ざされている)

(かの江は舟の中央に座り、宵音はその対面に、まなざしを逸らさずにいる)

 

かの江:(M)舟の上では、嘘がつけない。
    波は揺れず、空気も凪いでいて、ただ“呼吸”の音だけが、相手の鼓動に重なる。
    逃げ場のない世界。
    ふたりきりの、沈黙という名の告白。

 

(宵音がゆっくりと膝を寄せる。ふたりの膝が触れ合うほどの距離)

 

宵音:怖いの?
   僕が“弟”じゃなかったら、
   こんなに震えたりしないのに。

 

かの江:そうじゃない……
    あなたが、“まだ弟だった”ころの記憶が、この舟の中では全て……肌に戻ってくるのよ。

 

宵音:じゃあ、全部、思い出して。

 

かの江:駄目よ
    女という言葉が、私を何度も切りつけた。
    書けば“女らしくない”と咎められ、黙れば“女らしくていい”と褒められた。

    そのたびに、私の中の物語は痣を作りながら沈んでいった。

    あなたに触れたくなったのは、もしかしたら──“書けない私”を、ただ抱きしめてほしかったのかもしれない。

 

宵音:大丈夫。僕の声も、手も、目も──姉さんが“理性で閉じ込めた”ものを全て解き放って。

 

(宵音が、そっとかの江の手の甲に唇を落とす。
 湿った空気に、小さな吐息が響く)

 

宵音:“そこ”ってどこ?

 

かの江:…わからない。

 

宵音:どこだか、ちゃんと知ってるくせに。
   姉さんが、僕にだけは触れさせてきた場所。
   背中に落ちた雨粒を拭わせた指。
   髪に迷い込んだ風を、ほどかせた掌。

   あれは全部、“弟”じゃない僕に許した、触れ方だった。

 

(かの江が目を伏せる。喉元がかすかに震える)

 

かの江:(M)彼の指先が、記憶ではなく“感覚”で語りかけてくる。
    それは過去ではなく、今このときの“カラダの声”。

    私は舟の中で“言葉を失う”。

 

(宵音がかの江の髪に触れ、ゆっくりと梳く)

 

宵音:この髪……ずっと、触れたかった。
   ほんとは、雨の日じゃなくても、風の日じゃなくても、名前を呼ばれなくても、触れたかったんだ。

 

(梳かれる髪のなかに、ため息のような熱がこもる)
(かの江が、宵音の頬に指先を伸ばす。肌に触れる瞬間、舟がかすかに揺れる)

 

かの江:わたしは、あなたを、“弟”に戻せなくなる。

 

宵音:それでいい。それがいい。

   だって、舟に乗った瞬間から、僕たちは、“誰でもなく”なったんだよ。

 

(舟の外、霧のなかで、微かに時計の音が鳴る──)

 

カチリ──

 

かの江:(M)この音は、私の中の“抗ってきたすべて”が、ほどけていく音だった。
    喉の奥が、熱い。
    それは嗚咽ではなく…言葉にならない“名”に近い。

    触れてしまった手、流れてしまった時間、今ここにあるのは──弟ではなく、“男”としてのあなた。

    そして、私は──姉という名の檻を脱いだ、ただの女だった。

 

(宵音が、ゆっくりと手をかの江の背に回す。指先が、肌をなぞるように触れる)

 

宵音:ねぇ、姉さん。
   この背中を何度、夢の中で撫でたかわからない。

   あの朝、舟に乗ってくれなかった指が、今こうして僕の掌の中で、熱を帯びてる。

 

(宵音の手が、そっとかの江の髪を解き、ゆるく垂れた黒髪を指で梳く)

 

宵音:この髪も、耳も、濡れたままの襟元も…全部、誰にも渡したくなかった。

 

かの江:お願い……もう“姉さん”と呼ばないで。

 

(宵音が、そっと額を寄せ、互いの呼吸が唇の距離を詰める)

 

宵音:なら僕の本当の名前で呼んで。
   “許されないこと”を、この舟の上だけは赦してほしい。

 

(かの江が、ゆっくり目を閉じる。唇が、宵音の喉元に触れそうな距離)

 

かの江:(M)名を呼んだら崩れると分かっていた。

    けれど崩れなければ、たどり着けない場所があることを、私はこの湖でやっと知った。

 

かの江:……かけ流(かける)。

(その名が発せられた瞬間、ふたりの距離が静かに、完全に──重なる)

(舟が微かに軋み、霧の奥から鐘の音が鳴る)

 

──ゴォン……

──ゴォン……

 

(宵音が、かの江の背に手を回し、声にならない溜息を耳元で落とす)

 

宵音:ありがとう。
   これで……ようやく名前を赦された。

 

 

(霧が開けていく。水面に白い花びらが舞い、光が差す)

(かの江が、そっと宵音の胸元に指を這わせながら、もう一度──)

 

 

かの江:かけ流(かける)……

    あなたは、“わたしの罪”であり“わたしの赦し”だった。

 

(宵音が微笑む。身体が光の中に溶けていく)

 

宵音:かの江……また舟で会おう。

 

(宵音の姿が、水のなかの夢のように消える。残されたかの江の指先に、微かな体温だけが残る)

 

 


かの江:(M) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
   沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理をあらはす。
   おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…。


宵音:(M)京都、祇園…伝統が凝縮された明媚(めいび)で雅な美しい街。
   しとやかな空気とは裏腹に、毒々しくも艶(あで)やかな場所である事は誰もが知っていて、知らないふりをしている。
   「おこしやす。」と、にこやかに微笑むその笑顔を信じてはいけない。
   表と裏、本音と建て前、白も黒も多様な色もすべてが混ざり合って混沌としたかつての花街。

 


かの江:(M)この街で名を呼んだ。
    愛を越えて。
    禁忌に沈んで。
    それでも私はこの胸に“あたたかい最後”を抱いて岸へ還る。

    ……あるいは。

    舟に揺られながら、永遠に、“名を呼んだあの朝”に漂い続ける。

​完

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